2017年8月号
特集
維新する
一人称
  • 招福樓大主人中村秀太良

我が求道
一筋の人生

明治初年の創業以来、湖国近江に150年続く日本料理の名店・招福樓。95歳のいまも料理人としての使命に燃え続けておられる三代目主人・中村秀太良氏は、伝統の技に新しい工夫を大胆に凝らし、和食の可能性を追求し続けてきた。その足跡を振り返っていただき、維新を成し遂げた志士の如き気概の源を探った。

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料理にはつくり手の全人格が現れる

私は毎朝、洗面を済ませると、鏡に映った自分の顔、目、そしてその奥にある人間性をじっと観察します。さらに仏間に入り、心静かにお勤めを果たすと、しばらく坐禅を組んで内省のひと時を持ちます。

私が生涯の師と仰いだ臨済宗妙心寺派元管長・山田無文老師は、

「人間の親切と誠実と勘のよさがもっともよく表れるものは料理である」

と料理の定義をくださいました。無文老師の薫陶を受け、料理にはつくり手の全人格が現れると信じる私は、いまの自分は招福樓の大主人に相応しい人間であろうか、と日々自らの胸に問い掛け、95歳の今日まで日本料理の発展を願い、努力を続けてまいりました。

招福樓は湖国近江に明治初年に創業して以来、150年にわたり営業を続けてきた日本料理のお店です。鋳物師から転じた祖父が始めた茶屋に端を発し、近江、五個荘の豪商に贔屓にされ、一時は県下随一の茶屋にまで発展しますが、二代目の父が早世したため、母が女の細腕で経営に奮闘。私が幼少の時分はほとんど話をした記憶がないほど、母は店の看板を守ることに懸命でした。

私はそんな母から、ただひと言だけ、「後家育ちの息子と言われる人間にだけは、なってくれるな」と言われて育ちました。当家の長男として、甘ったれただらしのない男にだけは育ってほしくない。それが家庭を顧みる暇のなかった母の、私に対するせめてもの願いだったのです。

ところが母の期待に反し、私は生まれつきの虚弱体質で、医師からは「小学6年生まで持たないだろう」と言われていました。何とか中学へと進学を果たしたものの、毎日背中を丸め弱々しい身なりで通学する始末。

そんな私に対して、「胸を張って歩け!」と背中を殴り飛ばして励ましてくださったのが、進学後に始めた剣道の師・湯村哲明先生でした。湯村先生のご指導の下で日々鍛錬を続けるうち、私の体は次第に強くなり、「気をつけ!」の号令とともに、学生服の金ボタンが千切れ飛ぶほど胸板も分厚く発達したのでした。

人間は幼少期の教育次第で体も心もいかようにも成長し得る──。私は自らの体験からそう実感しております。

程なくして戦争が始まり、私は学徒動員で仙台の予備士官学校に入り厳しい教練に明け暮れました。その時の教官が私を最高の言葉で評価し、母に手紙をくださったことは、私の母に対するもっとも大きな孝行であったろうと信じております。

終戦後に大学を卒業すると、実家がお世話になっていた社長様のご紹介で、京都の三菱自動車の工場敷地内でプロパンガスを製造する会社の立ち上げに携わり、休む間もなかったため、家業とは異なる道を歩んでおりました。

招福樓は戦時中に軍の預かりとなり、正気荘と名を改め、将校専用の宿舎として経営。戦後、料理旅館業に復帰いたしました。慣れない旅館業に悪銭苦闘するその姿を見るに見かねて、私は会社を辞め家業に就く肚を固めたのでした。

会社からは随分慰留されましたが、最後にはご理解をいただきました。上司の餞の言葉はいまも印象に残っております。

「店を繁盛させ、何百万円儲けても、それで成功したと思うな。どんな大資本が隣で同じ商売を始めようとも、びくともしない店に育て上げてこそ、初めて成功したといえるのだ」
この言葉に心を奮い立たせ、私は家業に邁進してまいりました。

招福樓大主人

中村秀太良

なかむら・ひでたろう

大正11年滋賀県生まれ。学徒動員を経て、昭和22年関西大学卒業。京都酸素設立に携わった後、家業の招福樓に入る。29年組織変更に伴い招福樓社長に就任。平成4年会長。共著に『招福樓・おりふしのこと』『招福樓 季々のおもてなし』(ともに世界文化社)。