2020年8月号
特集
鈴木大拙に学ぶ人間学
対談
  • (左)臨済宗円覚寺派管長横田南嶺
  • (右)東洋大学前学長竹村牧男

鈴木大拙の求めた世界

鈴木大拙の愛弟子である秋月龍珉の薫陶を受け、仏教学一筋に歩んできた竹村牧男氏。若き日の鈴木大拙が参禅し、人格を練り上げた円覚寺の管長を務める横田南嶺氏。共に鈴木大拙に私淑するお二人は、新型コロナウイルス感染症が世界的に流行する未曽有の時代のいまこそ、鈴木大拙の思想に拠って立つべきと口を揃える。鈴木大拙が求めた世界とはいかなるものか。そこから見えてくる私たちの生き方、考え方とは——。

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東洋思想の精華

横田 今回、「鈴木大拙だいせつに学ぶ人間学」という特集で、いろんな方がそれぞれの角度からお話しされると聞いていますけれども、せっかく竹村先生と私が対談するのですから、大拙先生の思想の深いところに関しても少し語り合えればと思っています。
まずはそもそもの出逢いのところからお伺いしてよろしいでしょうか?

竹村 私は高校卒業後、1年浪人して東大に入学したのですが、仏教を学ぼうと思いまして、陵禅会りょうぜんかいという伝統ある禅のサークルに入りました。文化祭で秋月龍珉あきづきりょうみん先生を講演にお招きすることになり、以来秋月先生の勉強会に通うようになったのです。

横田 秋月先生といえば在家の身で禅の修行をされ、後に出家なさって禅に関する膨大な著作を残された方ですね。

竹村 ええ。秋月先生は大拙先生に20年にわたって師事し、鎌倉の松ヶ岡文庫に毎週のように行かれて、様々な教えを受けていたそうです。鈴木大拙の愛弟子まなでしを自任されている方でありまして、秋月先生の勉強会で学んでいるうちに、「大拙はこういうことを言っていた」とか「大拙はこういう人だった」とか、そういうことをたくさん教わりました。それがいわば大拙先生との出逢いです。

横田 竹村先生は大拙先生と直接お会いになっているのですか?

竹村 高校を卒業したのが昭和41年の3月で、その年の7月12日に大拙先生は95歳で亡くなられていますから、お会いしたことはありません。

横田 ああ、そうですか。竹村先生の世代でも……。

竹村 非常に残念なことですが、秋月先生を通じて大拙先生の存在を知り得たのは幸いでした。私の根本は秋月先生の影響が大きいですね。禅も学問も落ちこぼれですが、看経かんきんまなこといいますか、仏教の文献を読む時の見方や考え方を授かったような気がします。

横田 私も秋月先生には2、3回お目にかかったことがあります。学生の時分は主にここ(龍雲院/東京都文京区白山はくさん)にいたんですけれども、当時は大森曹玄そうげん老師も苧坂光龍おさかこうりゅう老師もご存命で、錚々そうそうたる方々のお姿をそれぞれのぞきに行きましてね(笑)。秋月先生がいらっしゃった神楽坂の即非庵そくひあんにもお伺いしました。いまでも印象に残っているのは、秋月先生はやはり求道者ならではの非常に澄んだ目をしておられたことです。

竹村 秋月先生は歯にきぬ着せぬ物言いで顰蹙ひんしゅくを買ったりもしていましたが、とても純粋な方だったと思います。
私が秋月先生から教わったことで一番心に残っているのは、大拙先生が「仏教の中で最高峰は華厳けごん思想だ」と言われていたということです。事物と事物が無礙むげに融合しながら、しかもそれぞれであるという「事事無礙じじむげ」の世界。これが東洋思想の最高峰、精華せいかだと。そういうことを聞いていましたので、大学院へ行ったら華厳思想を勉強しようと思っていました。

横田 私ども円覚寺えんがくじはよく元寇げんこうで亡くなった人をとむらうための寺だと言われるんですけれども、最近の研究で分かってきたのが、どうもそれは真実ではないと。華厳思想を具現するための寺を建てるというのが開祖・無学祖元むがくそげんの基本の思いで、その時にちょうど元寇があって敵味方の御霊みたまを供養したのだと。ですからご本尊は華厳の仏である毘盧遮那仏びるしゃなぶつなんですね。

竹村 そうなんですか。無学祖元さんはなぜ華厳のお寺をつくろうとしたのでしょうか?

横田 当時の南宋なんそうの禅というのは華厳の影響が非常に深いんです。ただ、いつの頃からか日本の禅は法華ほっけが中心を占めていきました。それはなぜかと言うと、やはり華厳は言葉が難しい。華厳を学ぼうとすると多くの人が挫折してしまいます。何とか伝えたいなと思うわけでありまして、これは後ほど語り合えたらなと考えています。

東洋大学前学長

竹村牧男

たけむら・まきお

昭和23年東京都生まれ。東京大学卒業後、文化庁専門職員、三重大学助教授、筑波大学教授、東洋大学教授を経て、平成21年より東洋大学学長。令和2年3月退任。専攻は仏教学・宗教哲学。主な著書に『〈宗教〉の核心─西田幾多郎と鈴木大拙に学ぶ』(春秋社)『西田幾多郎と鈴木大拙?その魂の交流に聴く』(大東出版社)『日本人のこころの言葉 鈴木大拙』(創元社)など。

「感性に訴えかけてくる」

横田 私が大拙先生の書物に触れたのは中学・高校の頃でした。

竹村 いやぁ、それは素晴らしいですね。

横田 ちょっと変わり者でございまして(笑)、中学生で目黒絶海ぜっかい老師という方のもとに参禅していたんです。いろんな本を読みあさる中で、やっぱり大拙先生の本には他の学者の先生とは違う魅力を感じたんですね。
それでこの先生は一体どういう方だろうと思って、学校の図書館にあった『大拙つれづれ草』をむさぼるように読みました。それから、志村武しむらたけし先生の『鈴木大拙随聞記ずいもんき』と秋月先生の『人類の教師・鈴木大拙』、この3冊はどこに何が書いてあるかを覚えるくらい、中学・高校時分に読みふけったものです。
宗教学者の山折やまおり哲雄先生も大拙先生の没後50年に中公クラシックスとして『仏教の大意』が出された時、その解説に次のような話を書かれています。かつて英国の日本学研究者たちと議論した際、「明治以降で、西洋に紹介された日本人の知識人、思想家の中で、最も欧米人に影響を与えたのは誰か」と聞かれ、一人に絞り切れず返答にきゅうしていたら、彼らから先に声が挙がり、「それは何といっても鈴木大拙だ、なぜなら日本人思想家が書いた本はすべて私たちの知性に訴えてくるから頭ではそれを受けとめる。でも大拙だけは違う。彼は私たちの感性にまで訴えかけてくるので、私たちはからだ全体でそれを受けとめることになるのだ」と。

竹村 おっしゃる通り、大拙先生の文章を読むと非常に感性に訴えるというか、愛情深さを感じます。

横田 感銘を受けた大拙先生の書物というとたくさんあるでしょうけれども、竹村先生は何を思われますか?

竹村 本当にたくさんの書物を著されましたよね。その中でも『日本的霊性れいせい』、これはやっぱり非常に感銘を受けました。禅のことが書いてあるのかと思ったら、主に法然ほうねん親鸞しんらんの世界を描いています。
阿弥陀仏あみだぶつの絶対無条件の大悲だいひによって、この身このまま救われると。これはインドにもなかったし、中国にもなかった。そういう意味で、日本的霊性と呼びたいということが説かれています。
大拙先生は明治42(1909)年、39歳の時に外国での仕事を終えて帰国され、翌年学習院の教授になりますが、時代と共に大学が軍国主義的な傾向になっていく。それを無二の心友しんゆうの西田幾多郎きたろうが心配し、大正10(1921)年に京都の大谷大学へ呼ぶわけですよね。その時の学長が佐々木月樵げっしょう、この方が仏教を世界に向けて発信するのだと言って、『イースタン・ブディスト』を創刊し、大拙に編集を任せます。
大谷大学へ行ったことによって浄土教の世界を詳しく研究され、実は禅と浄土教は一つに結ばれるところがある、これが日本的霊性だと言われたわけです。そういうことは学者には書けないですね。大拙先生の鋭い洞察によるものだと思います。

臨済宗円覚寺派管長

横田南嶺

よこた・なんれい

昭和39年和歌山県生まれ。62年筑波大学卒業。在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。平成3年円覚寺僧堂で修行。11年円覚寺僧堂師家。22年臨済宗円覚寺派管長に就任。29年12月花園大学総長に就任。著書に『人生を照らす禅の言葉』『禅が教える人生の大道』『自分を創る禅の教え』など多数。最新刊に五木寛之氏との共著『命ある限り歩き続ける』(いずれも致知出版社)。