2020年8月号
特集
鈴木大拙に学ぶ人間学
対談
  • (左)鈴木大拙館館長木村宣彰
  • (右)石川県西田幾多郎記念哲学館館長浅見 洋
二人の哲人

鈴木大拙と西田幾多郎の教え

世界に禅を伝えた仏教哲学者・鈴木大拙、独自の哲学体系を打ち立てた日本を代表する哲学者・西田幾多郎——共に明治3年に現在の石川県に生まれ、切磋琢磨しながら世界的人物に成長した二人の足跡と教えは、生誕150年を経たいまなお輝きを放ち続けている。鈴木大拙館館長・木村宣彰氏と石川県西田幾多郎記念哲学館館長・浅見 洋氏が語り合う二人の哲人の生涯や教えに、現代をよりよく生きる要諦を学ぶ。

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時代の転換期に生まれ育った2人

浅見 2020年は世界的な仏教哲学者・鈴木大拙だいせつ、日本を代表する哲学者・西田幾多郎きたろうの生誕150年に当たる記念すべき年です。2人は共に明治3(1870)年に加賀藩(現・石川県)に生まれ、金沢の第四高等中学校で出逢って以来、お互いに切磋琢磨せっさたくましながら世界的人物に成長していきました。

木村 「鈴木大拙・西田幾多郎生誕150年」ということで私がいま思うのは、人間は生まれた環境、時代に大きな影響を受けているということです。仏教には時機じき相応、その時代と機根きこん(人々の精神的素質)の2つに合わせて教えを説きなさいという言葉があります。例えば、いま新型コロナウイルスが猛威を振るっていますが、おそらく人間の生き方もその影響を受け大きく変わっていくでしょう。
ですから、大拙、西田が1870年に100万石の大藩・加賀藩に生まれたということには、非常に大きな意味があったと思うのです。

浅見 確かに、二人とも時代の大きな転換期に生まれています。

木村 1870年といえば、西洋の黒船が来襲らいしゅうし、300年近く続いた徳川幕藩体制が崩壊、1868年の「王政復古の大号令」で明治の新しい時代が始まった2年後です。翌1871年には「廃藩置県はいはんちけん」が断行され、加賀藩は現在の石川県となり、明治政府は西洋化、富国強兵に突き進んでいく。
もう一つこの頃の大きな出来事は、明治政府が神道しんとう国教化の方針から「神仏分離」を打ち出したことによって、廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動が巻き起こり、仏教の価値が根本的に問われる状況になったことです。
大拙と西田のご両親は仏教の信仰にとてもあつい方でしたから、突然、仏教に値打ちはない、日本はこれから神道のみで行くという時代になれば、二人にとっても価値観の大変動だったと思います。

浅見 これまでご先祖様や家族が心のり所としていたものが、突然否定されていくわけですね。

木村 そのような中で、やっぱり大拙は「日本の伝統文化、東洋文化には本当に値打ちがないのだろうか」「日本人とは何か」と問うたはずです。その問い、大きな課題を背負い、生涯を通じて東洋的なものの見方、東洋の考え方を西洋に伝えていったのが大拙という人だったのだと私は思います。もちろん、西田も哲学者として大拙と同じ課題を背負って生きました。
実際、大拙は本名の貞太郎ていたろうでは仕事をしていません。鎌倉円覚寺えんがくじ(神奈川県)の今北洪川いまきたこうせん老師、釈宗演しゃくそうえん老師の元で参禅修行をし、いただいた居士こじ号「大拙」の名前で論文や著作を最期まで書き続けています。これも、自分は東洋文化を西洋に伝えるのだという課題を終生抱いていたからでしょう。

鈴木大拙館館長

木村宣彰

きむら・せんしょう

昭和18年富山県生まれ。41年に大谷大学文学部仏教学科卒業。同大学大学院文学研究科博士課程を満期退学。専門は仏教学(中国仏教)。図書館長、文学部長を経て平成16年学長(22年まで)。25年より鈴木大拙館館長を務める。

大拙が背負った新しい課題と使命

木村 親友の西田が75歳で亡くなったのは、まもなく終戦を迎える1945年6月7日です。きょうは6月8日なので、西田が亡くなった翌日です。そういう意味でも、今回の浅見先生との対談には特別なものを感じます。

浅見 先日、西田の生まれ故郷のかほく市にあるお墓にお参りしてきました。本当に今回の対談は不思議な巡り合わせを感じます。

木村 それで注目しなければならないのは、大拙は西田が亡くなった後、20年以上も長生きしたということです。つまり急速にアメリカ化していく戦後日本を大拙は経験した。その中で大拙はまた新しい問い、課題を背負われたと思うのです。それは、西田の分まで自分が東洋のものの見方・考え方を世界により一層伝えなければならないという課題であり、特に戦後、東洋人でも日本人でもなくなりつつあった日本の人々に対して、「東洋とは何か」、あるいは「日本とは何か」を伝えていかなければいけない、という課題です。
著作を読むと、西田も近代化の中で日本人が東洋人、日本人でなくなっていくのを見通していたことが分かります。ですから、大拙はなおのこと、西田に成り代わって自分が使命を果たさなければならないと思っていたはずです。
あと、もう一つ使命ということでぜひ触れておきたいのは、大拙とビアトリス夫人の関係です。

浅見 ビアトリス夫人との関係はあまり知られてはいませんね。

木村 大拙は1897年に釈宗演老師の勧めでアメリカに渡り、約11年間、オープン・コート社で仏典の翻訳や通訳の仕事にたずさわりますが、その間に東洋思想を研究していたビアトリス夫人と出会い、結婚しています。そして大拙はビアトリス夫人が1939年に亡くなった時につくった遺稿集の序文に、自分たちは結婚生活の目標を東洋思想、東洋の心の動き、感情というべきものを欧米各国の国民に宣布せんぷすることに定めた、と書いています。これはすごいことです。普通の夫婦なら、約束するにしても「あなたを幸せにする」というくらいのものでしょう。
大拙は80歳を目前にして、再びアメリカに渡り、各地の大学で仏教、禅について講義していますが、これは一つにはビアトリスとの約束を果たすという使命感もあったのだと私は思います。

石川県西田幾多郎記念哲学館館長

浅見 洋

あさみ・ひろし

昭和26年石川県生まれ。金沢大学大学院文学研究科哲学専攻修了、博士(文学、筑波大学)。国立石川工業高等専門学校教授などを経て、現在、石川県立看護大学特任教授・名誉教授、石川県西田幾多郎記念哲学館館長などを務める。