2017年12月号
特集
対談
  • 画家安野光雅
  • 和久傳女将桑村 綾

仕事とは尊い遊び

画家の安野光雅氏は、応召の一時期を除いて幼少期からこれまで絵を描かなかった日は一日もないという。常にアイデアを巡らせ、新しい作品に取り組もうという芸術家魂は91歳のいまも健在である。今年(2017年)6月、京丹後に「森の中の家 安野光雅館」をオープンさせた桑村 綾さんも、老舗の和久傳を再建し、おもてなしの道を一途に追及してきた名女将として知られる。仕事は遊びに通じると語るお二人に、これまでの歩みを振り返りながら、現在の心境を語り合っていただいた。

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地域への愛情から生まれた安野光雅館

桑村 先ほどは、いま東京・六本木の国立新美術館で開かれています安藤忠雄展「挑戦」のオープニングセレモニーで安野先生とご一緒し、そしてまた、このようなかたちで親しく対談させていただけることを大変光栄に思っております。
6月に京都府京丹後市にオープンした「森の中の家 安野光雅館」は、おかげで連日、多くの方が来てくださっていましてね。安野先生も、建築を手掛けてくださった安藤忠雄先生もこの美術館のことをとても気にかけてくださいますので、いいご報告ができていることがとても嬉しいんです。

安野 辺鄙な京丹後の美術館に一日に100人以上が訪れると聞いて私も驚きました。

桑村 お盆の時なんか一日に300人以上の方がお見えになりました。東京など遠方から来られる方もいて、総数で申し上げますと、これまでに約1万人というところでしょうか。

安野 ああ、それは嬉しいね。

桑村 私は優しくて温かい雰囲気の安野先生の絵が昔から大好きで、その頃は絵は買えませんでしたが、絵本や先生がお書きになった書物を持っている程度でありました。美術館をつくろうなどとは考えなかったのですが、私たち和久傳の創業の地である京丹後に何か恩返しする方法はないだろうかと考えていた時に、丹後の風土に合った安野先生のホッとするような絵の美術館をつくりたいと思いました。
私どもでは鎮守の森づくりで知られる宮脇昭先生(横浜国立大学名誉教授)のご指導の下、10年前から京丹後に「和久傳の森」をつくっております。その敷地内に美術館を建てることを考えて安野先生のご了解を得、かねてから存じ上げていた安藤忠雄先生に思いきってご相談しました。安藤先生は断るつもりで足を運んでくださったみたいなのですが、実際に森を見て強く感じられるものがあったようで、設計を快くお引き受けくださったんです。

安野 それは、第一に桑村さんの情熱が大きかったからですよ。あなたの地域に対する深い愛情、物事を成し遂げようという行動力に深い感銘を受けたと安藤さんご本人がおっしゃっていますね。

桑村 安藤先生がすごいと思うのは、ご自身が仕事を引き受けられる限りは安野先生の画集や書かれたものを全部お読みになり、こちらの希望もすべて聞き入れてくださるんです。完成した建物をご覧になった安野先生も喜んでくださって、「安藤さんに設計をお願いして本当によかった」というお言葉をいただいた時は本当にホッとしたものです。

安野 安藤さんは、この人は本当に建築家だろうかと思うくらい普通の建築家とは「声」が違う。話す内容にも他の人と違って深みがある。なかなかこういう人はいません。だから、私なんか全面降伏でした(笑)。

桑村 普通に考えますと、安藤さんの建築と安野先生の画風は対照的な感じすら受けるんですけど、この美術館はそれが見事なくらいぴったりマッチしています。やはり安藤先生も安野先生の作風やお人なりなどをよく観察なさった上で感性を合わせられたのだと思います。とにかく大変なお二人の先生方と、森づくりをご指導いただいた宮脇先生にご縁をいただいたおかげで素晴らしい美術館ができたことを思うと、感謝の気持ちでいっぱいになります。

画家

安野光雅

あんの・みつまさ

大正15年島根県生まれ。昭和23年代用教員として山口県周南市の小学校に勤める。25年美術教師として上京、玉川学園や三鷹市、武蔵野市の高校で美術教師を勤め、36年画家として独立。文章がない絵本『ふしぎなえ』で絵本界にデビュー。『さかさま』『ABCの本』『旅の絵本』(いずれも福音館書店)などは海外でも評価が高い。ブルックリン美術館賞、ケイト・グリナウェイ賞特別賞、BIBゴールデンアップル賞、国際アンデルセン賞画家賞、紫綬褒章など受賞歴多数。

全国の人たちが京丹後の地に

桑村 私は安野先生を30数年前から1人のファンとして存じ上げていますけれども、こんなに親しくお話しさせていただけるようになるなど、少し前までは考えもしませんでした。縁尋機妙と申しますか、不思議としかいえない縁を感じているんです。

安野 掛け軸の日本画を巻くのにどの布にしたらいいのか、あの布にしたらいいのかというようなことを考えるのが好きだと言われたことを、ぼんやりと覚えています。あれは確か、お会いした最初の頃じゃなかったかな?

桑村 先生とのそもそものご縁は湯川秀樹博士が創刊された『創造の世界』という雑誌でした。いわゆる京都学派の先生方が主体になって発行されていて、いろいろなゲストをお招きした対談が高台寺(京都市)の和久傳で行われておりました。安野先生と初めてお会いしたのは、その対談の場でした。安野先生は確か、『創造の世界』には二度ほどお出になっていますよね。

安野 そうそう。私が対談したうちの一人は文化人類学者の今西錦司さんでした。今西さんがあんなに偉い人だとは思わないから、平気で対談をして帰ってきたら「恐れも知らず、あの先生とよく対談できましたね」と皆から言われたものだけど(笑)。
その後も桑村さんとは時折お会いしていましたが、「和久傳の森」で植樹が始まって5年も経たないうちに小木がすくすくと伸びちゃった。立派な森になって思わぬことに僕の美術館までつくっていただいた。

桑村 「森の中の家」というイメージにピッタリでしたから。先ほど申し上げたとおり、先生の美術館は大変好評で、アンケートをして統計を取りますと、やはり圧倒的に多いのは女性ですね。地域的にはだいたい1時間圏内の方が多くて「この周辺には文化的施設らしいものがなかった。よくつくってくれた」と絶賛してくださるのがとても嬉しいですね。
遠方からお越しくださるのは、「小さい時から安野先生のファンだった」という方や「津和野(島根県)にある安野光雅美術館まで行くのはちょっと遠いから」という方たちです。いま地方創生、地方の時代といったことが叫ばれておりますが、私どもはそういうことを意識してやったわけでは一切ないんです。しかし、結果として、いまの時代の流れに乗っていささかでも京丹後の活性化に繋がれば、という思いがいたしております。

安野 京丹後には、桑村さんから声を掛けられて歌舞伎の坂東玉三郎さんもお見えになっていますね。

桑村 ええ。昨年(2016年)、玉三郎さんを京丹後にお招きして特別公演をお願いしました。玉三郎さんは熊本の山鹿にある八千代座で26年間、毎年公演を続けられていて、そこに全国から人が集まってこられる。私どもも昨年が植樹を始めて10年の節目だったものですから、地元の皆様に喜んでいただくためにもぜひ玉三郎さんに来ていただきたいと思ったんです。それで6月に鼓童という和太鼓のグループの公演、翌7月には玉三郎さんの特別舞踊公演を開催させていただきました。
嬉しいことに、玉三郎さんばかりでなく、舞台の裏方を務めてくださる大道具さん、小道具さんもこの土地をとてもお気に召され、
玉三郎さんは「自分の体は10年は持ちます。最低10年は毎年来ます」と言ってくださったんです。山鹿の八千代座に全国から大勢の人が集まるように、京丹後の地もいずれそうなれたらと夢を膨らませているところです。

安野 桑村さんが僻地といわれていた京丹後を元気にしようとされている姿勢に敬服しているんですよ。いま地方再生とよく言っているけれども、現実には若者は皆都会に出てしまっている。自分の美術館に人が集まってくださっていることももちろん嬉しいことですが、あなたが和久傳の物販の製造工房を森の中につくって、特に地域雇用や地域浮揚に貢献されていることは実に立派です。働く場所が目の前にあるのは土地の人たちにとってもありがたいことじゃないですか。

和久傳女将

桑村 綾

くわむら・あや

昭和15年京都府生まれ。証券会社勤務を経て、39年に和久傳に嫁ぐ。丹後・峰山の衰退した和久傳を立て直し、62年には京都・高台寺に店を構える。現在は料亭業態の他、茶菓席やむしやしないの店舗を展開しており、百貨店でもおもたせとして弁当や和菓子・食品を販売している。京丹後の地域活性事業として「和久傳の森」づくり、物販商品の工房開設などを行っている。今年6月には「森の中の家 安野光雅館」をオープン。