2023年9月号
特集
時代を拓く
対談
  • 町おこしエネルギー会長兼社長沼田昭二
  • 良知経営社長濵田総一郎

新エネルギーの
創出に挑む

独自の製造・販売一体型のビジネスモデルを構築し、右肩上がりの成長を遂げる業務スーパー。創業者の沼田昭二氏は現在、経営母体である神戸物産の経営から離れ、地熱発電を柱とした再生可能エネルギー事業に取り組んでいる。その決断の背景にあるのは日本のエネルギー自給率、食料自給率を何とか向上させたいという氏の大義である。一大事業に不退転の決意で臨む沼田氏の歩みや仕事観を、沼田氏と共に事業を展開している良知経営社長・濵田総一郎氏にお聞きいただいた。

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全国に1,000店舗以上を展開する業務スーパー

沼田 濵田さんとは、もう長いお付き合いですね。

濵田 私が業務スーパーのフランチャイズ(FC)加盟店になったのが2004年だから、かれこれ20年です。最初にお会いして沼田さんのお話をお聞きした時は、「こんなとんでもない脳味噌のうみその持ち主がいるのか」と大変衝撃を受けたことをいまも覚えています。
とにかく中国の工場で冷凍食品をつくるにしても、野菜の土壌の質から製造や梱包こんぽう、輸出にかかるコスト、日本国内での輸送費に至るまで1円単位ですべて分かってしまわれる。コスト計算ができるばかりか、事業に必要と思えば、工場から機械から何からすべてを自前でつくってしまわれる。本物のイノベーター、アントレプレナー(起業家)とは沼田さんのような方だと思ったんです。

沼田 そこまで言っていただけると面映おもはゆい限りですが、いろいろな面で小売業界の常識を覆してきたことが業務スーパーの今日の発展につながったことは確かですね。ありがたいことに業務スーパーは2000年に1号店をオープンして以来、現在、全国に1,000店舗以上を展開し、4,000億円以上を売り上げるまでに成長してきました。

濵田 文字通り右肩上がりの大飛躍ですよね。特に2000年代前半は年間に100店舗ほどをオープンしていかれたわけで、この数字も尋常ではありません。
沼田さんとお会いする前、私は関東でお酒と食品のディスカウントショップを店舗展開していました。ところが、2003年の酒販免許の緩和で一気に赤字に転落してしまう。そういう時に沼田さんとご縁をいただいて業務スーパーに業態転換し、起死回生を図ることができました。現在、業務スーパーは我われ良知りょうち経営グループの事業の柱でもあり、66店舗を運営し2,500人の従業員を雇えるまでになりました。その意味でも沼田さんには大変な恩義を感じているんです。

沼田 嬉しいですね。

濵田 驚くような発想で業務スーパーを大きく飛躍させてこられたのもすごいことですが、それ以上に驚くのは、業務スーパーを運営する神戸物産の経営のほうは7年前に息子の博和さんに完全に譲って、新たに「町おこしエネルギー」という会社を設立し地熱発電など再生可能エネルギー事業に着手されたことです。
地熱発電といったら国家プロジェクトに匹敵するようなことですよ。これを一民間企業でやられているわけだから、これまた私たちの発想をはるかに超えている。しかも、ここでも独自のアイデアで時間と費用を大幅に短縮する方法を編み出された。きょうはぜひ、そのあたりのことも詳しくお話しいただきたいと思っているんです。

町おこしエネルギー会長兼社長

沼田昭二

ぬまた・しょうじ

昭和29年兵庫県生まれ。兵庫県立高砂高校卒業後、三越に入社。56年食品スーパー創業。60年神戸物産設立。平成12年業務スーパー1号店をオープン。以来、フランチャイズ方式で全国展開を図り現在1,000店舗以上を超える。外食産業や全国に20を超える食品工場も運営。28年神戸物産の経営を離れて町おこしエネルギーを設立。食料、エネルギーの自給率アップを大義に再生可能エネルギー事業に取り組む。

品質や価格で差別化できる商品を開発

濵田 沼田さんは兵庫県加古川市のお生まれですが、子供の頃から起業家になりたいと思っていらしたのですか。

沼田 はい。いま思うと、高校2年の時には、当時売り上げ日本一の三越に就職して商売を覚え、いずれ独立することを決めていましたね。三越さんの時価総額を上回る会社にしたいというのがその頃の夢でした。業務スーパーも時価総額1兆円を超え、実際にその夢は実現しましたけれども。
私の兄と姉は家の事情で中学までしか行けなかったのですが、そばに住んでいる叔父が高校の用務員でしてね。成績がよかった私を進学させるよう両親を説得してくれたんです。できれば大学にも行きたかったのですが、さすがにそれは両親から反対され、そのあたりから本気で起業家を志すようになりました。

それで神戸三越で1年7か月間流通について学んだ後、独立しました。最初は三越時代の伝手つてを頼りに東京日本橋周辺の卸業者の仕入れ先を回ったのですが、まったく相手にされませんでした。何社も回った、ようやく愛知県の布団カバーメーカーと取り引きさせていただけるようになりました。わずか4ケースの布団カバーをガタガタの軽四輪トラックに積んで団地などを回って売るわけです。その頃の生活はさすがに楽ではなかったですね。
オイルショックをきっかけに、布団カバーから食品に切り替えまして、1981年、26歳の時、地元・加古川に僅か64平米の食品スーパー・フレッシュ石守を設立しました。最初は冷蔵ショーケースすらない状態でしたが、頑張って2店舗まで展開しました。だけど、ちょうどその頃から大手をはじめスーパー業界全体がおかしくなり始めるんです。

濵田 ダイエーの経営が厳しくなったのも1990年代ですね。

沼田 ダイエーの創業者・中内いさおさんは、私が尊敬する経営者のお一人です。しかし、その中内さんのダイエーですら衰退していく現実を目の当たりにしながら、バイイングパワー(大きな販売力を背景とした大きな購買力、仕入れ力)の限界を感じました。
小売業を成功させるには販売に重きを置くのではなく、品質や価格で差別化できる商品を開発するほかない、そのためにはメーカーをやりたいと強く思うようになっていました。ちょうど日本企業の中国進出が熱気を帯びていた頃でしたから、1990年に大連に入り、暗中模索の末にその2年後に工場を始動させました。梅干しや佃煮つくだになどの加工品を大容量、かつ安価なオリジナル商品として海外の日本食レストランや小売業に卸し大変喜んでいただいたんです。

濵田 中国に自前の工場を構えるのはリスクを伴うことでもありますね。

沼田 私は当時何のノウハウもありませんから「中国に工場をつくります。リスクはすべて私が負うので協力してもらえませんか」と日本の食品メーカーに呼び掛けたところ、4社が応じてくれました。実際、何かあったら自分が責任を負うつもりで4社に場所をお貸しし、そこではうちの従業員も使っていただきました。幸いだったのは4社の技術がそこに集約されたことで、私どもの従業員もそれを学ぶことができたことです。
リスクといえば、2007年から翌年にかけて中国産餃子ぎょうざ薬物中毒事件というものがありましたでしょう。あの時の打撃は大変なものでしたね。

濵田 よく覚えています。事件の後、多くの日本人が中国産食品、食材に対してアレルギー反応を示すようになり、中国産の冷凍食品を取り扱っていた私たち加盟店も大打撃を受けましたから。

沼田 多くのFC加盟店さんからの厳しい批判を受けて、全コンテナの検査や農薬のチェックを行い、中国がメインだった生産体制を一部、欧米や東南アジアにシフトすることにしましたが、私は他のスーパーさんのように中国製の冷凍食品をどんどん減らすことはしませんでした。当時、お客様の2〜3割は飲食業者で、供給を断つことはできないと判断したからです。
「いずれ冷凍食品の需要は回復するから、それまで辛抱しんぼうしてほしい」と加盟店のオーナーさんを説得して回り、私自身にとっても苦しい忍耐の時期でしたね。

良知経営社長

濵田総一郎

はまだ・そういちろう

昭和30年鹿児島県生まれ。武蔵大学卒業。東武鉄道勤務を経て帰郷し、家業の立て直しに尽力。平成3年独立してパスポートを創業、社長に就任。令和3年に18社を擁するホールディング体制に移行。良知経営グループの代表を務める。著書に『尊ぶは志』(致知出版社)。