2016年6月号
特集
関を越える
一人称
  • 戸城素子

〝決して背を見せない〟
を貫いた一技術者の生涯

昭和20年8月9日、ソ連は突如日ソ中立条約を破棄、旧満州に侵攻してきた。そして打ち続く中国の国共内戦。この大混乱がもたらす難関を、現地にあった一技術者はいかに乗り越えたか――86歳になる娘が語る父の肖像。

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満洲の首府新京束の間ののどかさ

両親と私たち子供5人の一家が玄界灘を越えて大陸に渡ったのは昭和18年8月です。

父瀬戸健次郎41歳、母倫子36歳、長女の私は13歳でした。父健次郎は王子製紙に勤務する技術者で、社命で満洲紙業統制協会に赴任、全満洲の製紙パルプ工場の生産計画技術指導に当たっていました。そして、1年間の単身生活の後、私たち家族を迎えにきたというわけです。

大東亜戦争は既に日本の劣勢に傾き、玄界灘のあたりにもアメリカの潜水艦が出没するようになっていました。そのために下関と朝鮮の釜山を結ぶ関釜連絡船は運航が不規則。父が奔走して私たち一家は博多港から出る軍の船に便乗することができたのでした。

しかし、列車で朝鮮半島を縦断、鴨緑江を越えて満洲に入ると、のどかで平和な雰囲気です。車窓から見えるのは行けども行けども大草原、時折集落がポツリポツリと遠くに現れるという景色です。

そして着いたのはいまの長春、当時満洲国の首府だった新京で、そこが父の勤務地であり、私たちが暮らす場所です。街は道幅が広くきれいに区画され、店々には日本ではあまり見られなくなった衣類や菓子類が溢れています。行き交う満洲人、耳慣れない満洲語、それらが異国を感じさせ、私の好奇心を膨らませるのでした。

住まいは一時協会の寮に、間もなく富錦路沿いに家を新築して移りました。いずれも日本人が多く住む街です。学校は錦ヶ丘高等女学校2年に編入となりました。

私は好奇心の赴くままに新京の街を探検して歩きました。花で飾られた駕籠に乗った真っ赤な衣装の花嫁に見とれ、楽団が賑やかに演奏してまるでお祭りみたいなお葬式に驚き、城内と呼ばれる満洲人が住む区域を覗きに行きます。そこは危ないから日本人は一人で行ってはいけない、と言われているのですが、店で買い物をすると、よく来てくれたと大歓迎です。それからも秘かに隠れて何度か城内に遊びに行きました。新京に住んでの1年半を振り返ると、楽しさに胸が膨らんできます。

だが、戦時下です。学校では砲弾磨きをしたり、看護の実習をしたりといった勤労奉仕があり、そして4年生になると学徒動員令が下り、私は中部防衛司令部に配属され、モールス信号の解読、受信、発信の訓練を受けました。その通信室で事態の急変を知ることになるのです。

戸城素子

としろ・もとこ

昭和5年熊本県生まれ。18年製紙技術者だった父親と母親、妹弟4人とともに旧満洲国の首府・新京に移り住む。満洲へのソ連侵攻、国民党支配、内戦などの混乱を経て28年に帰国。その間、父親とともに共産党指導下の中国吉林で製紙工場立ち上げに奔走する。