2024年10月号
特集
この道より
我を生かす道なし
この道を歩く
インタビュー②
  • 漆芸家高名 秀人光

漆芸の道に生き、
生かされて

輪島塗や風光明媚な自然で広く知られる石川県輪島市で生まれ育ち、「サヨリ」をモチーフにした独自の作品をつくり続けている漆芸家の高名秀人光氏、68歳。漆の道一筋に50年歩んできた氏に、先の能登半島地震で甚大な被害を受けた故郷復興への思い、そして厳しい修業と創作活動の中から掴んだ運命・仕事をひらく要諦を語っていただいた。

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故郷・輪島の復興に向けて

──輪島市内には倒壊したままの家屋やビルなど、今年(2024年)1月1日に発生した能登半島地震(マグニチュード7.6、死者341人)のつめあとがいまもなお生々しく残っており、とても胸が痛みます。

私は故郷の輪島を拠点にしつげい家として活動を続けてきましたが、今回の地震はこれまで経験したことのないすさまじいものでした。
1月1日の午後4時10分。自宅で家族とくつろいでいた時に突然揺れが襲い、家具や食器は次々なぎ倒され、あまりの衝撃と恐怖で身動きが取れないほどでした。
揺れが収まり外に出ると、自宅の被害はそれほどでもなかったのですが、周囲の家々は倒壊し、道路はひび割れ陥没かんぼつ、マンホールは腰の高さまで飛び出していました。また、発令された大津波警報の防災放送やスマートフォンのサイレン音が鳴り響き、まるでこの世の終わりのような状況でしたね。

──想像を絶します。

その後、車で山側方面に逃げたのですが、途中にふと後ろを振り返ると、空が真っ赤になっていたんですよ。家が焼けてしまったと絶句しましたが、これは200棟以上を焼いた朝市通りの火災によるものだと後で分かりました。
余震があったため、車中泊をしたんですけれども、結局4日目に自宅に戻りました。電気は割とすぐに復旧したものの、水道は3月上旬まで使えず、それまでは毎日水をみに行き、自衛隊が設置してくれたお風呂に入る日々が続きました。でも、家族が皆無事だっただけで本当によかったなと……。実際、私の知る人でも、2軒隣の方、漆芸の指導を受けた先生ご夫妻がお亡くなりになりました。

──身近な人が犠牲に……。

いまやっと普通の生活を取り戻すことができましたが、能登全体ではまだまだ復興が進んでいませんし、日本が世界に誇る輪島塗に関しても、被災した職人さんが輪島に戻って来られないなど深刻な状況にあります。基本的に輪島塗は、木地の作成から下地、塗り、装飾まで分業制をとっていますので、職人さんが一人抜けただけで制作が滞ってしまうんですよ。
ですから、少しでも故郷の復興のためになればという思いで、この10月25日と26日の2日間、能登を代表する名旅館・加賀屋さんが運営する金沢茶屋にて、復興支援イベントを企画しているんですね。こうした支援の輪を広げていくことによって、必ず震災前以上の活力を取り戻していくことができる。そう信じています。

漆芸家

高名 秀人光

たかな・ひでみつ

昭和31年石川県生まれ。中学卒業後、定時制高校で学びながら輪島塗メーカーにて6年間修業。56年石川県立輪島漆芸技術研修所卒業。58年第15回日展で初入選。平成23年第43回日展で特選。神戸市の湊川神社や伊勢市の伊勢神宮に作品奉納。公益社団法人日展会員、一般社団法人工芸美術日工会常務理事。