2023年5月号
特集
不惜身命 但惜身命
対談
  • 堀内志保
  • 堀内詩織

乗り越えられない
試練はやってこない

5年後の生存率ゼロ%という悪性小児がんが堀内詩織さんを突如襲ったのは、2003年3歳の時だった。しかし、母・志保さんの懸命な介護、そして地元・高知のお祭りで「よさこい」を踊りたいという強い思いを胸に、詩織さんは辛い抗がん剤治療に耐え、様々な人生の苦難を乗り越え、現在に至っている。医学の常識を覆し、20歳を超えて生きる詩織さんの姿は、人間の生きる力と、意志の及ぼす力のいかに大きいかを語って余りある。その母子二人三脚の歩みこそは「不惜身命 但惜身命」と呼ぶにふさわしい。

この記事は約21分でお読みいただけます

終わらなかった試練の日々

本誌 志保さんに、小児がんを発症した詩織さん(当時10歳)との壮絶な闘病の日々を語っていただいた弊誌2010年12月号の記事には、全国からたくさんの感動の声が寄せられました。あれから早13年が経ちましたが、まず近況からお話しいただけますか。

志保 13年前に取材していただいてから、何年後だったでしょうか。心臓にも悪いところが見つかりまして……。娘が「よさこい」を踊るようになったきっかけは後にお話ししますけれども、地元・高知の交流事業で韓国へよさこいを踊りに行った際、突然倒れて心臓が止まってしまったんです。
5分ほど意識が戻らず、現地の病院に駆け込んだものの、明確な診断はなく、結局1泊して日本に戻りました。詩織は韓国に行く前から調子が悪くて、検査はしてはいたのですが、最終的に心臓に病気が見つかり、15歳の時にICD(植込み型除細動器)の手術を行うことになりました。
で、障害者手帳をもらって、いまも狭心症の薬を毎日飲んでいますし、2か月に1回は医科大に通い、ICDも何年かに1度は電池を入れ替える手術をしなければいけません。車の免許を取るにも医師の診断書が必要で、空港の探知機など強い電磁波を発する機器にも近寄れないんです。
ですから、小児がんは再発しなかったものの、新たに心臓の病気が出てきて、お医者さんとの縁は一生切れなくなってしまいました。

本誌 前回の取材後も試練の日々が続いていたのですね。詩織さんは、ご自身の心臓の病気をどのように受け止められたのですか。

詩織 まず、小児がんの時の手術に加えて、体の傷がさらに増えるのが嫌でしたし、いままで以上に日常生活が制限されるのは本当につらいことでした。正直、ICDを入れてまで、生きなあかんのかなって……。それでも手術を決心できたのは、まだ生きてよさこいを踊りたいという気持ち、母の支えがあったからだと思います。

志保 心臓の手術は親として本当に悩みました。詩織からも「機械になってまで生きるのは嫌や!」「お母さんに私の気持ちは分からん!」って言われました。

詩織 反抗期ではないですけれども、この時が人生で一番母と言い合いをしました。そんなことを母に言ったのは初めてで、それほど心臓の手術は辛かったんです。

志保 けれども、私が「せっかく小児がんに負けずにここまで生きてきたのだから、生きるすべがあるならば、手術をするべきじゃない?」っていう話をしたら、詩織はいま時の子らしく、「手術しても携帯は使える?」って。それで主治医に確認し、心臓から離れた右手で使えば大丈夫だと分かると、手術を受け入れてくれました。
とにかく、3歳で小児がんを宣告され、「この子は5年生きられない」と言われてから、15歳まで12年生きてきた。もう明日は来るのか、明後日はどうなっているのか分からない、そんな状況で突っ走ってきましたから、親としてここで諦めるわけにはいかん、その思いが一番強くありました。

堀内志保

ほりうち・しほ

高知県生まれ。平成12年、詩織さんを出産。3年後に詩織さんに悪性の小児がん「腎悪性横紋筋肉腫様腫瘍」が見つかり、5年後の生存率はゼロ%と宣告される。以後、15歳で新たに見つかった心臓疾患を含め、詩織さんの闘病を支え続ける。

人に生きる力を与えられる人になりたい

本誌 いま、志保さんは高知、詩織さんは大阪と、それぞれ離れて暮らしていると伺っています。

志保 高校3年の夏に、突然「大阪の学校に行く」と言い出したんです。高知の親戚も皆、「心臓が悪いのだから、親元に置いておくべき」「親として止めるのが当たり前や」と散々反対されました。それでも、「もう願書も取り寄せた。ちょっと見学に行ってくる」と。

本誌 決意は揺るがなかった。

志保 この子は昔から1度こうだと決めたら聞かないんです。「あなたが決めたなら仕方がない」との思いで最後は送り出しました。

本誌 詩織さんはどんな思いで大阪に行くことを決めたのですか。

詩織 祖母が美容師で、母も着物をよく着ることもあって、着物関係の専門学校に行きたいなとずっと考えていたんですね。それで高知から近い大阪に着物の専門学校があるのを見つけて、「あ、行こう!」という感じで関西に出てきました。2018年、18歳の時です。

志保 でも、2か月くらい経った6月頃、具合が悪くなって入院したよね。その後も年に1度は体調を崩し、入退院を繰り返してきました。まあ、それでも帰らんということで、現在に至るんです。
ですから、お互いに用事がなくても毎日電話しています。

詩織 そう、毎日電話。あと母は月1回は大阪に来てくれます。

本誌 とはいえ、心臓の病気と向き合いながら、大阪で一人暮らししていくのには、いろいろと大変なことも多いのではないですか。

詩織 それまでは病気のこともあって、母がずっと私のそばにいてくれて、身の回りのことを全部やってくれていました。なので、最初は食事をつくるのも大変でしたし、1人で寝るのも怖かった。体調にもすごく注意していました。
そんな私を母ももちろんそうですけれども、専門学校の先生や友達、アルバイト先の方々が本当に温かく支えてくれたんです。ちょっとしたことでも「大丈夫?」と気遣ってくれたり、体調を崩した時には、「玄関に置いておくから、これ食べとき」って食材などを届けてくれたり……。皆の支えがなければいまの生活はないです。

本誌 多くの人に支えられて。

詩織 私は、まさか20歳まで生きられるとは思っていなくて、具体的にこうなりたいという夢を描けずにいました。けれども、多くの方に支えられる中で、最近はSNSなどを通じて自分の病気の経験を発信し、同じような立場にある人、悩んでいる人に生きるパワーを与えられる存在になれたらいいなと思うようになりました。
お医者さんから長くは生きられないと言われた自分が、小児がんに負けず、心臓にICDを入れながらも、いまこうして元気に生きている。だから、皆さんも決して諦めずに頑張ってほしいって。
夢というほどではないですが、いまそんな思いでいます。

堀内詩織

ほりうち・しおり

平成12年高知県生まれ。15年に悪性の小児がん「腎悪性横紋筋肉腫様腫瘍」を発病。5年後の生存率はゼロ%と宣告されるも、母の介護、様々な人の支え、「よさこい」を踊りたいという強い思いを生きる力に医学の常識を覆す。その姿は22年に公開された映画『君が踊る、夏』(東映)のモチーフともなった。