2018年5月号
特集
利他りたに生きる
  • NPO法人人道の船・陽明丸顕彰会理事長北室南苑

陽明丸 奇跡の救出作戦

──利他に生きた男たちの物語

いまから100年前、ロシア革命で難民となった約800名の子供たちを船に乗せ、太平洋、大西洋を横断して親元に届けるという3か月の大救出作戦が行われた。その中心的役割を果たしたのが日本人の船会社社長と船長である。忘れられた歴史を100年ぶりに発掘し、顕彰している北室南苑さんに、男たちの偉大なる足跡についてお話しいただく。

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「北室と室蘭は関係があるのですか」

人生では時にまったく予想もしない出会いが訪れ、その出会いによって思ってもみない方向に運命が導かれることがあるものです。
 
オルガ・モルキナとの出会いはまさにそうでした。2009年9月、ロシアの古都・サンクトペテルブルクで篆刻てんこくの個展を開いていた時、一人のロシア人中年女性が近づいてきて、唐突に「あなたのお名前はキタムロさんですよね」と英語で話しかけてきたのです。

「ええ、そうですが」
「お名前のキタムロと室蘭むらろんとは何か関係があるのでしょうか」
 
彼女は私の名前に「室」の字が入っていたことで、北海道の室蘭と何か関係があるのではないか、と思ったようなのです。石川県で生まれ育った私にとって、室蘭は何の縁もない土地です。あまりに突拍子もない質問に「いいえ」と素っ気なく答えましたが、彼女はそのまま強い口調で話を続けました。

「実はある人を探しているのですが、少し話を聞いてもらえませんか……」
 
この時の彼女の話、そこで手渡された資料の内容は概略、以下のようなものでした。
 
1920年頃のロシア革命後の混乱期、戦火を逃れるために当時の首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)から東に数千キロ離れた日本海沿いのウラジオストックまで避難し、難民となった約800名の子供たちがいました。子供たちは「ヨウメイマル」という日本船に乗ってウラジオストックを出発。太平洋、大西洋を船で横断し約3か月の大航海の末に無事、ペトログラードの両親のもとに帰還します。子供たちにとってこの大航海は終生忘れられない幸せな思い出となり、その体験談は子孫に語り継がれていきました。
 
私に声を掛けてきたロシア人女性オルガの祖父母は、ともにヨウメイマルによって救助された子供たちで、後に結婚。その時の体験をまるでどこかの国のおとぎ話のように孫のオルガに話していたといいます。おとぎ話のように、というのは、圧制下のソ連では、自国の子供たちが資本主義国・日本の船に救われるという屈辱的な出来事は、口にすることさえタブー視されていたからです。
 
ヨウメイマルはウラジオストックを出た後、まず室蘭に寄港して現地の子供たちと交流しています。オルガが室蘭と北室は関係があると思ったのはそのためでした。
 
そのオルガが私に依頼したのは、祖父母の話の中に度々出てきてカヤハラという日本人船長に関する調査でした。祖父母が慕っていたカヤハラ船長の墓参を果たし、助けていただいたお礼を子孫に伝えたいというのがオルガの切なる願いだったのです。
 
私にしてみたら、見ず知らずの外国人からの一方的な頼み事ですから、丁寧にお断りすることもできました。事実、これまで何人もの日本人がオルガの依頼を断ったといいます。しかし、その真剣な眼差しに何かを感じた私は、ホテルに帰ってから英文で書かれたA4の用紙3枚の資料に丁寧に目をとおしてみました。読めない部分もありましたが、「これはすごいことだ」とは分かりました。そして、帰国するまでヨウメイマルのことがずっと頭から離れることがありませんでした。
 
幸いというべきか、私は専門の書道に限らず、一つのことに強い関心を寄せると、時間を忘れて没頭してしまうタイプの人間です。いまは雲をつかむような話でも、5年、10年すれば何かが分かってくるのではないか、という気楽な気持ちで探索に取り掛かりました。これが私と陽明丸との出合いとなったのです。

NPO法人人道の船・陽明丸顕彰会理事長

北室南苑

きたむろ・なんえん

石川県生まれ。書・篆刻家、著述家。創作の一方、国内だけでなくオーストラリア、スコットランド、アメリカ、中国などで個展を開催。NPO法人人道の船・陽明丸顕彰会理事長として陽明丸の偉業を伝えている。著書に『陽明丸と800人の子供たち』(並木書房)『雅遊人 細野燕台の生涯』『篆刻アート』『哲学者西田幾多郎の書の魅力』(いずれも里文出版)など。