2018年5月号
特集
利他りたに生きる
インタビュー①
  • 作家脇谷みどり

娘、母、そして父 
トリプル介護の先に
見えてきたもの

日本の高齢化が進むにつれ、介護に携わる人も急速に増えている。しかし、1人で3人もの介護に当たりつつ、社会的にも多岐にわたって活躍する人は稀だろう。究極の利他行ともいえるトリプル介護に携わってきた脇谷みどりさんに、その険しい道を経て見えてきたものについて伺った。

この記事は約14分でお読みいただけます

母に書き続けた5,000枚のハガキ

——脇谷さんは、ご家族3人の介護をなさりながら、ラジオのパーソナリティや執筆活動をしてこられたそうですね。

FMラジオのパーソナリティを始めたのは、平成17年でした。脳性麻痺まひの娘・かのこが気管切開して呼吸器をつけた頃で、介護がものすごく大変だったんですが、たまたま娘がお世話になっていた園の隣にあるスタジオで、地元西宮のコミュニティ番組をやっていましてね。出演の依頼を受けて、娘の介護のお話をしたらアナウンサーの方が心配なさるので、「いやいや、あきらめることはないですよ」って。「実は私、実家で鬱病うつびょうになった母を喜ばせるために5,000枚(放送当時は3,000枚)、毎日ハガキを書き続けたらよくなって、母はそこから作家にまでなったんですよ」というお話をしたんです。
そうしたら、しばらくしてラジオ局から「番組をやりませんか?」ってご依頼をいただいたんです。
私と同じ重度の障がい児を持つお母さんの中には、夜中に熟眠しないようにラジオやテレビをつけっぱなしにして寝る方がたくさんいらっしゃるんです。お子さんが発作を起こした時、すぐ気づかないといけませんから。番組ではそういう皆が知らない親の苦しみ、悲しみをいろいろお話しするんですが、早いものでもう年ですよ(笑)。
  
——いま、お母様に5,000枚もハガキを書いたとおっしゃいましたね。

ええ。阪神・淡路大震災の翌年に、大分の実家にいた母が鬱病と認知症を発症したんです。娘のかのこを抱えていたので家を離れることができなくて、代わりに毎日1枚、「くすっ」と笑える話をハガキに書いて送ることにしたんです。
それを13年と11か月かけて、5,000枚書き続けたんですが、おかげさまで母は鬱も認知症もなくなり、おまけに元気になって書いた作品が出版社の目に留まって、77歳で作家デビューまで果たしたんです。そのハガキは、とにかく母に治ってほしい一心で書き送ったもので、おおやけにする気は全くなかったけど、母がすべて保管していたので、私が本にすることになりました。
ところが、その後で両親を大分から呼び寄せたら、次の年に母が脳梗塞こうそくで倒れ、4年目に父が認知症を発症しました。かのこと併せてトリプル介護の生活が始まりました。そういう体験を、エッセーにまとめて新聞に連載したり、本にしたりしてきたんです。

作家

脇谷みどり

わきたに・みどり

昭和28年大分県生まれ。障がいのある娘の誕生をきっかけに介護に奔走しながら、執筆活動を展開。平成8年には郷里の母が鬱病を発症。5,000通ものハガキを送り続け、その間に母の病気は完治。その後も娘と高齢になった両親のトリプル介護を余儀なくされながら、エッセーの連載やラジオパーソナリティを続け、多くの人に希望を送り続けている。著書に『希望のスイッチは、くすっ』『晴れときどき認知症』(ともに鳳書院)など。