2018年5月号
特集
利他りたに生きる
対談
  • 文学博士鈴木秀子
  • 臨床心理士皆藤 章

人々の命に寄り添い続けて

人生に悩み、苦しみ、死の恐怖に怯える人たち……。聖心会のシスターで文学博士、ゲシュタルト・セラピストの鈴木秀子さん、臨床心理士で4月からハーバード大学客員教授として研究に従事する皆藤 章氏は、それぞれの立場で、そのような人たちの命に40年間、静かに寄り添い続けてきた。日々命と向き合う中で見えてきた世界について語り合っていただいた。

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祈ってくれる人がいたら生きていける

鈴木 皆藤先生のご著書を拝読いたしました。臨床心理士として、約40年間、苦しむ方々の命と丁寧に向かい合って生きてこられたお姿が伝わってきて、圧倒されました。先生はこの春、京都大学を退官し、世界のハーバード大学に客員教授として招かれるそうですが、そのタイミングで、こうしてお話が伺えることをとても楽しみにしてまいりました。

皆藤 ありがとうございます。ハーバード大学では、人間が死にくとはどういうことなのか、それが私の主な研究テーマになります。私はまだ人の死がどういうことなのか分かっておりません。そういう意味でも、長年、シスターとして人間の死を見つめ、つらい状況にある人たちの命に寄り添い続けられる鈴木先生にぜひ教えをいただきたいと思ってきました。
きょうの対談のテーマは「利他に生きる」ですが、臨床心理学の世界では利他という言葉は使わないんですね。利他を辞書で引いてみると、「自分を犠牲にしても他人の利益を図ること」などと書かれています。このテーマをいただいた時、これまでの人生を振り返って、いろいろなことを考えました。自分は人のために何かをしたことがあるのだろうか、それは結局自分のためではなかっただろうかと……。

鈴木 私もこのテーマについて改めて考えた時、利他に生きるということを特別に意識したことはなかったな、と感じました。私はシスターとして病気で命の期限が限られた人などによくお会いしますけれども、最初の頃は「この方の病気を治してください」と神様に祈っていました。
しかし、ある時からそういう思いを超えたところで、「この人にとって一番いいようにはからわれますように。一番よい結果になりますように」という祈りにだんだんと変わっていったんですね。だから、私の場合、「誰かのため、何かのため」を意識して生きてきたわけでは決してありません。

皆藤 私も長く臨床心理士として活動する中で、最終的には「祈り」ということに行き着くのではないかと思っていましたので、鈴木先生のいまのお話には大変納得できました。

鈴木 誰かが辛い時、苦しい時、現実的には私には何も手助けすることはできません。できることは、お祈りすることだけです。しかし、これまで多くの人たちに出会ってきて、「祈りなんて自分には必要ありません」と言う人は一人もいらっしゃいませんでした。
私には祈ることの意味を感じた一つの出来事があります。40歳前後でしょうか、一人の男性が人生に行き詰まって、医者の紹介で私のところにお見えになったことがあります。その人は船に乗って世界を回っているのですが、時々家に帰ると、幼い我が子が母親に虐待されていた。子供たちは体中アザだらけの状態で「お父さんのところに行きたい」と訴えるというんです。
だけど、子供たちを船に連れていくことはできません。両方の親も亡くなっていて子供たちを預けることもできない。私と男性が向き合って、長い沈黙が続いた後、男性はふっと顔を上げて「いま決心がつきました。子供たちを施設に預けます。妻も病院で治療を受けられるよう手配を整えます」と言いました。

皆藤 考えた末に、ご自分で一つの決断をされたのですね。

鈴木 はい。それで、彼が立ち上がって帰ろうとする時、私は「何もしてあげられませんが、あなたのためにずっと祈り続けます。お子さんのためにも奥さんのためにも祈り続けます」と言ったんです。そうしたら彼は「自分のために祈ってくれる人がこの世の中に一人でもいれば、生き抜くことができます」と言って突然、わーっと大声を上げて泣き出し、椅子に座り込み、かなり長いこと涙を出し続けていました。
この彼との出会いは、祈りを大切に生きてきた私に大きな励ましの力を与えてくれました。

文学博士

鈴木秀子

すずき・ひでこ

東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。聖心女子大学教授を経て、現在国際文学療法学会会長、聖心会会員。日本で初めてエニアグラムを紹介したことで知られる。国際コミュニオン学会名誉会長。著書に『幸せになるキーワード』(致知出版社)『9つの性格』(PHP研究所)など。最新刊に本連載の感動的な話をまとめた『自分の花を精いっぱい咲かせる生き方』(致知出版社)。

死に逝くプロセスをともに生きていく

皆藤 鈴木先生のお話を伺いながら、私は4月から私を迎え入れてくださるハーバード大学のアーサー・クラインマン先生のことを思い出していました。彼は医療人類学の大家です。慢性疾患の方や命のときが長くない、いわゆる死に逝く人たちにインタビューをして、それを記録し研究していました。しかし、私は、そんな先生に「長く生きられない人の時間を奪ってインタビューをして、自分のために論文を書いているのはおかしいではないですか」と挑戦的な質問をしたんです。
ところが、それを聞いたクラインマン先生はたいそう喜ばれて「答えはすべて私の本に書いてある。この本を読め」と。そして、「いまから40年前、私は君と同じ問いを抱いて日本の精神科医・土居どい健郎たけお(『甘えの構造』の著者)を訪ねた。その40年後に日本人の君が、同じ問いを抱えてアメリカ人の私のところにやってくるとは、人生は実に面白い」と大笑いされました。
その後もいろいろお話しさせていただく中で「我われは生物としての死を止めることはできないが、死に逝くプロセスをともに生きることはできる」とおっしゃったんです。その時、私は科学では説明がつかないとしても、限られた人生をどう生きるかという研究テーマは必ずあると確信しました。
命と寄り添うための実践はどうあるべきなのか。アメリカではそのことを学んできたいと思っています。

鈴木 素晴らしいことですね。いま皆藤先生は「命に寄り添う」とおっしゃいましたけれども、私はある地方に旅行をした時、それを実感する出来事に出合いました。「苦しんでいる終末期の人がいる。来てほしい」という連絡が入って行ってみると、90歳近い母親に年配の息子さんが付き添っていました。「痛いよ、苦しいよ」とわめく母親に、息子さんは「母さん、痛いか、苦しいか」と話しかけていました。
私はその様子を見ていて、息子さんに「母さん、痛いよね、苦しいよね」と気持ちを寄り添わせてみたらどうですか、と伝えて、息子さんもそのように語りかけました。すると、驚いたことに母親が次第におとなしくなり、表情も穏やかになっていったんです。
ああ、この息子さんはいままで母親の苦しみを取ってあげようと頑張っていたけれども、苦しみと相対するところに自分の心を置いていて2人の間には距離があった。かける言葉を少し変えただけで、母親にピッタリとくっついて同じ命を生き始めることができたんだ、と気がついたんですね。

皆藤 クラインマン先生はケアの本質はラブだとおっしゃっていましたが、まさにそういうことだと思います。そのラブとは若い人たちの性愛的なラブ、未来に向かって開かれていくラブではなく、ある年齢まで生きて次第に弱っていく相手に対するリスペクト(尊敬、敬意)だというんです。鈴木先生のご著書には「感謝」という言葉が数多く出てきますが、リスペクトという言葉はそれとつながるものがあるような気がします。

臨床心理士

皆藤 章

かいとう・あきら

昭和32年福井県生まれ。52年京都大学工学部入学。京都大学教育学部転学部。61年京都大学大学院教育学研究科博士後期課程研究指導認定。大阪市立大学助教授、京都大学助教授などを経て、平成19年より京都大学大学院教育学研究科教授。30年4月からハーバード大学客員教授に就任。文学博士。臨床心理士。