2022年12月号
特集
追悼・稲盛和夫
座談会
  • 徳武産業会長(前方右)十河 孝男
  • 日本経営ホールディングス名誉会長(後列右)小池 由久
  • 良知経営社長(前方左)濵田 総一郎
  • ピーエムティー社長(後列左)京谷 忠幸

我ら、
かく稲盛フィロソフィを学び、
経営を発展させてきた

京セラやKDDIを大企業に育て上げ、日本航空を再建された稲盛和夫氏。そのもう一つの顔、それが教育者としての側面である。若き中小企業経営者の育成のため1983年、51歳の時に盛和塾(当初は盛友塾)を立ち上げ、2019年の解散まで36年間にわたって指導を続けた。その塾生の数は国内外2万人近くに及ぶという。稲盛氏の厳しくも温かい薫陶を受けた徳武産業会長・十河孝男氏、日本経営ホールディングス名誉会長・小池由久氏、良知経営社長・濵田総一郎氏、ピーエムティー社長・京谷忠幸氏にお集まりいただき、稲盛氏の教えをいかに経営に生かしてきたか。哀悼の思いを込めて語り合っていただいた。

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巨星の荘厳な旅立ち

本誌 稲盛和夫・せいじゅく塾長がご逝去せいきょされ、いまだに敬慕の念が尽きることはありません。塾長が経営者の勉強会として立ち上げられた盛和塾は3年前に解散しましたが、きょうは塾生として親しくくんとうを受けた皆様に、その教えをどのように経営に生かしてこられたかを、思い出を交えながらお話し合いいただきたいと思います。
4人の中で最も入塾が早いはまさんから順番に、塾長のご逝去の報をどのように受け止められたか、お話しいただけますか。

濵田 私が稲盛塾長に最初にお会いしたのは1994年、盛和塾ができて11年目でした。ですから約30年、親しくご指導をいただいてきたわけですが、よくぞ同じ時代、同じ空間で稲盛塾長の謦咳けいがいに親しく接することができたと思うと、その奇跡的な出会いに感謝しかありません。
塾長が存在しておられるだけで自分の心が高められる思いがしていただけに、亡くなったと知った時、心に大きな穴が空いたような気持ちでしたね。
きょせいつ」という言葉がありますけれども、私はむしろ「巨星の荘厳な旅立ち」と表現したいと思います。塾長は魂は永遠であると確信しておられましたし、おそらくあちらの世界で魂を高める修行をされていることでしょう。「教えるべきことはすべて伝えたぞ。これからはしっかり自立しろよ」。これが塾長のラストメッセージだったのだと思い、いま奮起を誓っているところです。

小池 私も塾長は使命を果たされて天国に旅立たれたという思いですね。人生や経営で迷った時、自分(塾長)であればどうするか、という視点を持ってほしいと常日頃ご指導をいただいていました。そういう意味でこれからも塾長にいただいた「経営12ケ条」を常に実践しながら自分たちの会社をよくしていくのが何よりの恩返しだと思いますし、同時に稲盛哲学の学びを若い世代に伝えていくことが恩送りになると思っています。

十河 お二人がおっしゃったことと重なりますが、塾長は家族の方に見守られながらご自宅で老衰で亡くなったと知って、心安らかに天国に旅立たれたんだなと私もそう感じました。もちろん、塾長の死は大変残念だけれども、いい旅立ちであったと思いたいです。いまは感謝の思いでいっぱいです。
塾長は体力、気力を振り絞って私たちをご指導くださいました。3年前に盛和塾を解散された時、自分がいずれこういう日を迎えると悟られていたのかもしれません。

京谷 私は塾長に対してただ感謝の思いしかありません。盛和塾には2001年から約20年お世話になりました。その間、ソウルメイトもたくさんできましたし、高い志を抱く機会もいただきました。訃報ふほうをお聞きした時は、部屋にもってしばらく瞑目めいもくしながら塾長の思い出を振り返っていました。本当に残念です。

徳武産業会長

十河孝男

そごう・たかお

昭和22年香川県生まれ。県立志度商業高校(現志度高校)卒業後、香川相互銀行(現香川銀行)、手袋メーカーを経て59年徳武産業に入社、社長に就任。平成27年から会長。さぬき市商工会会長や観光協会会長を歴任。同社が開発した介護シューズ「あゆみ」は広く知られる。

自暴自棄の人生から企業家の道へ

本誌 稲盛哲学との出会いはどのようなものでしたか。

京谷 私は28歳で起業する前はセラミックのエンジニアでした。京セラさんとは取り引きがありましたので私も22歳の頃から時折、京セラさんを訪問していました。すると食堂の掲示板に「謙虚にしておごらず、さらに努力を」という言葉や「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」という人生・仕事の方程式が掲示してあったんです。
稲盛塾長はこれだけの成功を収めながら、なぜ「謙虚にして驕らず、さらに努力を」とおっしゃっているのか、ずっと疑問だったのですが、京セラの社員さんから塾長の講話「心と経営」のカセットテープを紹介いただき、また『日本経済新聞』に連載された塾長の「私の履歴書」や過去の新聞記事を読む中でこの言葉が生まれた原点が分かり、私の座右の銘にさせていただいたんです。私自身、非常に苦難の多い青少年期を過ごしてきましたので、特に心に響いたのかもしれませんね。

濵田 私は京谷さんと親しくさせていただいていますが、あれだけの苦労をよくぞ乗り越えてこられたものだといつも思っています。きょうはぜひそのご体験談を聞かせていただけませんか。

京谷 はい。私は福岡で生まれまして、9歳の時に父が、16歳の時に母が亡くなりました。中学卒業を控えた頃も、母は既に病床に伏していましたので、きっと高校には行けないなと。新聞配達や生徒会長、サッカーをして頑張り、教師になる夢を抱いていたのですが、生活保護の家庭でしたから「自分は何のために勉強をしているのだろうか」と随分悩みました。道が閉ざされて無気力になり、夏休みの宿題をすべて白紙で出したのを覚えています。
そういう時に返済減免の奨学金試験を受けて合格し、国立高専に行けば学費、寮費が免除されると聞いて、国立高専1本に絞って秋くらいから猛勉強し、進学することができました。ところが、高1の辺りから母の病状が思わしくなくなって、悪いことに母が病床でだまされて連帯保証人となり1,080万円の借金を負うんです。
私はこれから一体どうしたらいいのかとあまりの理不尽さに希望を見失い、バイトに明け暮れながらも、バイクや夜遊びにのめり込んで自暴自棄になっていました。結果的に、18歳の時、借金返済や祖母を安心させたいとの思いから、高専を高校課程で辞め、先ほどお話ししたセラミックの会社に就職することにしたんです。

濵田 大変な時期でしたね。

京谷 次々に降りかかる試練に向き合い、どのように生きたらよいか悩んだ挙げ句、始めたのが両親のルーツを訪ね歩くことでした。両親の友人から生前の話を聞く中で、魂は人の心に残ることや人の温かさを知り、ようやく落ち着きを取り戻すことができました。真っ当な生き方を正々堂々とやっていこうと思い立ったのが20歳くらいでしたね。
当時働いていたセラミックの会社は上場会社でしたが、学閥派閥の壁があって高卒の人間はどんなに頑張っても課長以上には行けなかった。将来を考えた時に起業しようと決めました。家内と二人でコツコツめたお金などを元手に1991年、28歳の時に半導体製造装置の商社を3名で設立したんです。
盛和塾とのご縁ができたのは2001年、37歳の時です。福岡の盛和塾が発足して7~8年経った頃に京セラの方から入塾を勧めていただきました。その頃は、PTA会長をしていて入塾を先延ばしにしてしまっていたのですが、もっと早く入塾しておけばよかったと後悔しています(笑)。

日本経営ホールディングス名誉会長

小池由久

こいけ・よしひさ

昭和29年岐阜県生まれ。高校卒業後、47年会計事務所(現・日本経営)に入社。平成8年社長に就任。19年会長を経て、27年名誉会長に就任。調剤薬局チェーン・サエラ社長、社会福祉法人ウエル清光会理事長も兼任。