2020年4月号
特集
命ある限り歩き続ける
対談
  • (左)臨済宗円覚寺派管長横田南嶺
  • (右)作家五木寛之

人間・仏陀の足跡に学ぶ

命ある限り歩き続ける——この言葉に最も相応しい人物の一人が仏陀と言えよう。ブッダガヤにて悟りを開いて50余年、熱砂の中を最後の最後まで教えを説いて歩き続けた、その希有なる足跡に思うこと、学ぶべきことについて、お馴染みの五木寛之氏と横田南嶺氏に語り合っていただいた。

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講演と対談こそが作家活動の本道

横田 『致知』で五木さんと対談させていただくのも、今回でもう3度目になりますね。最初に対談の機会をいただいた時(2018年10月号)には考えも及ばなかったことで、大変嬉しく思います。

五木 いやいや、横田さんにお目にかかる度にいろんなことをしゃべりたくなるものですから、2回では物足りなく感じましてね。

横田 光栄の極みです。
五木さんも2020年で88歳になられますが、ますますご活躍のようですね。

五木 いや、もう体はガタガタなんですが(笑)、いまも月に3、4度は旅をして、いろんな所でお話をさせていただいています。昨日は札幌のアイヌ関係の催しに呼ばれて、次は旭川に行く予定なんです。

横田 あぁ、ご執筆の合間を縫って。

五木 私は小説家ですから、もちろん原稿も書きますし、本も出しますけども、どちらかというと話をすることのほうをより大事にしているのです。講演と対談は執筆活動の余技ではなくて、むしろ本道と自分では思っているんですよ。
ですから、お声がかかればどこへでも講演に行きますし、対談も大学者からストリッパーまで相手構わず、この50年で2,500人くらいの方々と向き合ってきました。

横田 それはまた、途轍とてつもない実績ですね。

五木 考えてみれば、仏陀ぶっだもキリストもソクラテスも、自分で1冊も本を書いていません。彼らが生涯かけて成してきたのは説法と問答、まさしくいまで言うところの講演と対談です。
私たちは活字とか書物に過大な思い入れを抱きがちです。けれども、仏陀は阿難あなんをはじめたくさんの弟子たちに肉声で教えを説きましたし、親鸞しんらんも直接教えを授ける面授めんじゅということを大切にしました。私も非常にラッキーなことに、これまで実にいろんな方のお話を伺う幸運に恵まれて、そこから自分のものの考え方をつくり上げてきた人間なんです。
ですからきょうの対談も、私の一番大事な仕事として臨ませていただきました。

横田 大変恐縮でございます。

作家

五木寛之

いつき・ひろゆき

昭和7年福岡県生まれ。生後まもなく朝鮮に渡り、22年に引き揚げる。27年早稲田大学露文科入学。32年中退後、PR誌編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、41年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、42年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、51年『青春の門筑豊篇』ほかで吉川英治文学賞を受賞。また英文版『TARIKI』は平成13年度『BOOK OF THE YEAR』(スピリチュアル部門)に選ばれた。14年菊池寛賞を受賞。22年に刊行された『親鸞』で毎日出版文化賞を受賞。

退化する人間の能力

横田 いま五木さんがおっしゃったように、お釈迦しゃか様は教えを肉声で語りましたが、弟子たちはそれを100年ないし2、300年の間は文字にすることもしませんでしたね。彼らがあえて文字にしなかったのは、なぜだと思われますか。

五木 文字というのは、中世まではコトバの代用品だったんですね。ですから日本の『万葉集』なども、もともとはメロディをつけて声に出してうたわれていました。
仏陀の話を聴いた弟子たちは、後で集まって内容を確認し合います。

横田 結集けつじゅうといいますね。

五木「師はこういうお話をなさったよね」「いやいや、そうじゃないだろう。きっと反語だと思う」というふうに議論を重ねてまとめていくわけですが、普通の言葉では記憶できないから、というものにしました。ポエムにしてリズムに乗せて歌うことで、仏陀の言葉を皆で覚えたわけです。
仏教研究の大家である中村はじめ先生訳の初期仏典を読むと、まるで歌詞のようで、しかも繰り返しが非常に多いんです。最初はなぜだろうと不思議に思っていたんですが、あれは歌でいうところのリフレインなんですね。ビートルズの歌なんかも、サビの部分で同じ歌詞を繰り返すじゃありませんか。あれと同じじゃないかと思うんですよ(笑)。

横田 一見冗長じょうちょうなようですが、そうして繰り返し耳で聴くことによって、お釈迦様の言葉が心に深く沁み渡っていくんでしょうね。

五木 考えてみると、お経というのはメロディもリズムも全部入っていますね。ですから私は最近「般若心経はんにゃしんぎょうラップ」というのをつくったんです(笑)。まだ発表していませんけども、お経をラップのリズムで歌えるようにすれば、いまの若い人も関心を持ってくれるのではないかと思いましてね。

横田 あの「般若心経」をラップで。それは画期的なことですね。
先人たちもそういう工夫を重ねて、貴重な教えが何百年にもわたって守り続けられたことは驚くべきことです。

五木 昔は、超人的な記憶を専門にする人たちもいたんですね。日本の『古事記』や『日本書紀』も、そういう人が内容を全部自分の頭に叩き込んで伝承したわけですから。万一間違えたら大変ですので命懸けでやっていたことでしょう。その人たちにとって、本を一冊丸暗記することなど何でもなかったと思うんですよ。

横田 人間の能力というのは、計り知れないものがありますからね。

五木 私は以前、鹿児島の隠れ念仏を取材したことがありました。島津藩の念仏弾圧を逃れて信仰されていたもので、その中でもさらに異端とされるカヤカベ教というのがあるんですね。カヤカベ教には経典はなくて、教祖やその一族が教義をすべて記憶しているんです。実際に聴かせてもらいましたけど、数時間もダーッと見事に暗誦するんです。

横田 しかし、暗記に頼らず文字にして記録するようになったことで、人間のそういう優れた能力も退化してしまったのでしょうね。

五木 おっしゃる通りです。
活字の登場が人間の退行の第1回目だとすれば、第2回目は電子機器の登場でしょう。いまはスマホですぐ答えが出てくるから、もう人間は完全に知識をたくわえる必要がなくなりました。とんでもない時代になったものです。そのうち、お経を読まないお坊さんも出てくるかもしれませんね。代わりにスマホがお経を読み上げる(笑)。

臨済宗円覚寺派管長

横田南嶺

よこた・なんれい

昭和39年和歌山県新宮市生まれ。62年筑波大学卒業。在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。平成3年円覚寺僧堂で修行。11年円覚寺僧堂師家。22年臨済宗円覚寺派管長に就任。29年12月花園大学総長に就任。著書に『人生を照らす禅の言葉』『禅が教える人生の大道』『自分を創る禅の教え』など多数。最新刊に『生きる力になる禅語』(いずれも致知出版社)。