2021年4月号
特集
稲盛和夫に学ぶ人間学
我が心の稲盛和夫③
  • KDDI相談役小野寺 正

人間として何が正しいか

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35歳で訪れた人生の転機

無線分野の専門家として日本電信電話公社(現・NTT)に勤めていた私に、大きな転機が訪れたのは1983年の夏、35歳の時でした。公社の4年先輩の千本倖生せんもとさちおさんからホテルのロビーに呼び出され、「電電公社に対抗する新しい電話会社を一緒につくらないか」と誘われたのです。

当時、中曽根康弘首相が行財政改革を進めており、電電公社を含む「三公社」改革はその目玉となっていました。電電公社については、民営化や競争原理を導入することで高度情報化社会に相応ふさわしい電気通信サービスを実現しようというのが政府の構想でした。千本さんはその流れに乗って公社を飛び出し、それに対抗するライバル企業をつくろうと考えたのです。

そんなことが本当にできるのだろうかと、私の胸中は揺れ動きました。その一方、このまま電電公社という大組織にいても、自分がやれることは限られている。白紙に地図を描いていくような新事業に挑戦できるチャンスはそうないだろうとの思いもありました。

その気持ちが固まったのは同年秋でした。千本さんに指示されるまま参加した京都の会合で、新しい電話会社の設立に情熱を燃やす稲盛和夫さん(当時・京セラ社長)と元通産省資源エネルギー庁長官で京セラ副社長の森山信吾さんに初めてお目にかかり、いろいろ話をする中で「よし、やってみようか」と思い至ったのです。その時に稲盛さんから、「生半可なまはんかなことでは困る。公社を辞めて退路を絶って来てくれ」とはっきり言われたことをいまでも覚えています。

ただ、それまで私は京セラという名前は知っていたものの、稲盛さんについてはほとんど存じ上げませんでした。初めて稲盛さんにお目にかかった時も、電気通信事業に対する思いや熱意・情熱を強く感じましたが、それだけでは事業はうまくいかないだろうというのが正直な印象でした。むしろ、森山さんと「電話会社をつくるのであれば郵政省から人をもらわないとだめだ」との話題が出た時に、森山さんがそのように動いていると伺ったので、「それなら大丈夫だ」と安心したのが本当のところです。

KDDI相談役

小野寺 正

おのでら・ただし

昭和23年宮城県生まれ。東北大学工学部電気工学科卒業後、旧日本電信電話公社(現・NTT)に入社。59年、後のDDIの母体となる第二電電企画に転職。平成9年DDI副社長。13年KDDI代表取締役社長に就任。会長などを経て30年より現職。京セラ取締役、大和証券グループ本社取締役などを歴任。