2021年11月号
特集
努力にまさる天才なし
対談
  • (左)海上自衛隊幹部学校長真殿知彦
  • (右)作家瀧澤 中

人望力は努力から生まれる

強い人材と組織をつくるリーダーの心得

幹部自衛官を育成する海上自衛隊幹部候補生学校、指揮官・幕僚としての専門知識、幅広い教養を養うと共に、部隊運用等の研究も行う海上自衛隊幹部学校。この2つの学校長を歴任し、日本の平和を守る人材の教育に情熱を傾けてきた海将の真殿知彦氏。古今東西の様々な歴史や人物研究を基に、リーダーシップや人材育成、組織づくりに関する数多くの著書を世に送り出してきた作家の瀧澤中氏。その二人が自らの体験、歴史事例を交えて語り合う、強い人材・組織をつくる要諦、いま求められるリーダーの条件——。

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歴史はいまに連綿と繋がっている

瀧澤 真殿さんと初めて出会ったのは15年ほど前でしたね。真殿さんの防衛大学校の同期の方のご紹介で会いして、いろいろとお話しする中でお互い歴史が好きだという共通点が分かってきた。
それ以来、真殿さんが指揮官として海上自衛隊の基地がある青森県の八戸はちのへや鹿児島県の鹿屋かのやに赴任された時に訪問し、現地に残る旧海軍の史跡を一緒に見て回るなどして親交を深めていったんです。

真殿 そうでした。本当にいろんなところを見て回りましたね。

瀧澤 鹿児島には、よく知られる陸軍の知覧ちらん特攻基地以外にも特攻隊の基地がたくさんありますね。例えば、鹿屋の串良くしら海軍航空基地跡には、いまでも当時使われていた電信室が地下にそのままの姿で残っています。そこでは、特攻隊員がまさに敵に突撃するという最後に発するモールス信号を受信していたと、真殿さんに教えていただきました。
私はそこに立った時に、歴史は決して昔の出来事ではなく、いま目の前にある確かな現実のように感じたんですよ。〝戦前・戦後〟というように断絶しているのではなくて、歴史とずーっとつながっていまの自分があるという感覚です。
また、真殿さんはお城巡りをフィールドワークにしていらっしゃいますけど、当時のまま残っているお城を見ると、やっぱり、戦国時代の武将たちと自分が繋がることができる。織田信長や豊臣秀吉も私たちとまったく関係のない過去の人物、物語ではないんですね。

真殿 ええ、城巡りを趣味にしているんですが、お城は家族と行ってはだめなんです。もう話題が尽きなくて……家族は「早く帰ろう」って言い出しますからね(笑)。

瀧澤 そう。真殿さんとお城巡りをしたら、石垣の前で1時間でも2時間でもたたずんじゃう(笑)。史跡というのは単なる「場所」ではなく、「歴史」そのものですよね。
広島県の江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校(旧海軍兵学校)にお邪魔して講義をさせていただいた折、校内を拝見しました。幹部候補生学校には、日露戦争で活躍した秋山真之あきやまさねゆきが少尉候補生として乗った戦艦「金剛こんごう」の甲板が、赤レンガ正面玄関のドアのない吹きざらしのホールの床板に使われていて、いまも印象に残っています。これはつまり、学生たちに「常に自分たちは艦の上にいるのだ」という緊張感や自覚を忘れさせないためにそうしていると伺いました。

真殿 ええ。なんせドアがないので雨風で床がびしょびしょになるんですが、当直の学生たちはそれをモップで綺麗きれいにするんです。それは陸にいながら、艦上、船の上の生活をさせるという、旧海軍兵学校からの歴史と伝統なんです。
それにあまり知られていませんが、戦艦「金剛」は明治23(1890)年、和歌山の樫野崎かしのざき沖で発生した「エルトゥールル号遭難事件」で救助されたトルコ人を祖国まで送り届けているんです。

瀧澤 歴史をつくった甲板を間近に見、その上に立つことができるというのは本当にすごいことです。まさに歴史といまが連綿れんめんと繋がっていることをじかに感じられるのが、戦艦「金剛」の甲板だと思います。

海上自衛隊幹部学校長

真殿知彦

まどの・ともひこ

昭和41年千葉県生まれ。平成元年防衛大学校を卒業後、海上自衛隊入隊。第2飛行隊長、第1航空隊司令、海上幕僚監部防衛課長、第2航空群司令などを経て、28年海上自衛隊幹部候補生学校長。29年統合幕僚監部防衛計画部副部長、30年横須賀地方総監部幕僚長。令和2年より海上自衛隊幹部学校長。

原点になった父の満州体験

瀧澤 きょうはせっかくの機会ですから、改めて真殿さんの人生の歩みをお聞きしたいと思っていました。真殿さんはどんなきっかけで自衛官の道に進まれたのですか。

真殿 私の場合、家族にも、親類にも自衛隊関係者は全くいないんですよ。いて言えば、東京・練馬の実家の近くに陸上自衛隊の朝霞あさか駐屯地があったくらいです。
ただ、戦前、満州に移り住んだ祖父が映画館や公会堂を建設する責任者を務めていましてね。それで父は現地の高校を卒業し、日本の大学に通うために終戦前に本土に戻ってきたのですが、まあ、その父が戦前の教育を受けたいわゆる軍国少年だったんです(笑)。
もう軍艦が大好きで、私が幼い頃は酔っ払った父につかまってよく一緒に軍歌を歌わされました。

瀧澤 お父様の影響が大きかった。

真殿 ええ。私が高校に入った頃でした。父が満州時代のことをふと語り始めたんですよ。父が満州時代の高校の同窓会に参加したら、シベリアに抑留されたり、そこで死んだり、行方不明になった同級生がたくさんいることが分かった。幸いにも自分は満州が陥落する前に本土に戻ることができたけど、現地に残った自分の友達や知り合いはソ連軍が南下してきて大変な目に遭った。しかし当時の関東軍は日本人を守らず逃げていったんだ、というような話をしてくれたんです。その時の父はとても悔しそうだったのを覚えています。
そしてその後に、「戦後日本には自衛隊という組織ができた。これは本当に国民、日本人を守るための組織になるはずだから、防衛大学校を受験してみないか」と。

瀧澤 その言葉ですぐに自衛官への道を歩もうと決めたのですか。

真殿 正直、高校生の私は特になりたい職業もなく、あまり勉強もせず、本当にふらふらしていました(笑)。でもこのまま平凡な人生を送るより、自衛隊という選択肢の先にもしかしたら何かあるのではないかと興味を持ったんです。
それじゃあ一度、自衛隊を見に行ってみようと思って、友達と近所の朝霞駐屯地で行われる観閲式かんえつしきを観に行きました。観閲式では、防衛大学校の学生隊が先頭で入場してくるんです。自分より少しだけ上の年齢の人たちなのに、とても堂々とした姿でいるのに感動しました。その威風堂々たる姿も制服もすごく格好いいんですね。その姿と父の満州体験が重なり、自分も自衛官の世界に飛び込んでみようと、一所懸命勉強して防衛大学校に入ったんです。これが1985年、18歳の時でした。

瀧澤 実際に防衛大学校に入ってみてどうでしたか。

真殿 入校式まではよかったんですが、それが終わると地獄の3週間が始まりました(笑)。
朝6時に起床、走って外に集合して、乾布かんぷ摩擦をしながら号令調整という声出しをし、その後には腕立て伏せ。それから掃除、合間を縫って朝食、制服に着替えて八時には整列完了。で、行進や敬礼の訓練をひたすらやる。この時点でへとへとですね。
ついこの前まで普通の高校生だった人間がいきなりそんな生活できないじゃないですか。団体生活にもなかなか馴染めず、2週間ほど経った頃だったか、指導教官に「自分は勉強したくて防衛大学校に入ったのに、いつまで経っても授業が始まらない。もう辞めさせてください」と相談しに行ったこともありました。結局、「あと1週間したら授業が始まるから、もう少し頑張ってみないか」と説得されて思い留まったのですが、それくらい苦しかったんです。

瀧澤 「苦しくて辞めたい」。真殿さんにもそんな時代が……(笑)。

真殿 ただ、苦しい地獄の3週間を乗り越えると、授業も始まってきますし、だんだん楽しくなっていきましてね。最初は部屋長の4年生1人、1年生5人ほどで1つの部屋に寝起きして団体生活を送るんですけど、夜になると「夜話」といって部屋長がいろんなことを語ってくれるんです。同室になった部屋長は、当時、海上自衛隊に導入されたばかりのP‐3Cのパイロットを目指していて、「ハワイでの日米の演習でP‐3Cがすごい成果を上げたんだ!」なんていう話をしてくれるわけです。
そうした日々の中で、自分も先輩のように海上自衛隊に進んでパイロットを目指そうと、目標を持って努力するようになりました。

作家

瀧澤 中

たきざわ・あたる

昭和40年東京都生まれ。作家・政治史研究家。日本経団連21世紀政策研究所「日本政治タスクフォース」委員などを歴任。自衛隊や経済・農業団体、企業などでの研修、講演会にも積極的に取り組む。著書に『「戦国大名」失敗の研究』『「幕末大名」失敗の研究』(共にPHP文庫)『秋山兄弟-好古と真之』(朝日新聞出版)『ビジネスマンのための歴史失敗学講義』『人望力』(共に致知出版社)がある。