2017年8月号
特集
維新する
一人称
  • 東善寺住職村上泰賢

明治維新前夜、
既に維新は
始まっていた

悲劇の幕臣 
小栗上野介の生涯

幕末混乱期の最中、類まれな先見性や洞察力によって、日本の近代化を推し進めた一人の人物がいた。幕臣、小栗上野介である。しかし、その功績は明治維新を境にして、語られることはなかった。なぜかくも長く小栗上野介の功績は、歴史の闇に埋もれていたのだろうか。長年小栗上野介の顕彰活動を続ける東善寺住職・村上泰賢氏に、維新の立役者の全貌を明らかにしていただいた。

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日本人初の世界一周

小栗上野介が歴史の表舞台に立ったのは、時の大老井伊直弼によって遣米使節団の目付に抜擢されたことに始まる。遣米使節団とは日米間で調印された修好通商条約の批准書を取り交わすために編制されたものだが、不平等条約を結ばされた上に、わざわざ渡米する必要まであったのかという批判に晒されることが多い。

しかし、これには幕府の思惑が強く働いていたことはあまり知られていない。日本より遥かに進んだアメリカの政治や社会を実地に見聞し、日本の将来に資するところを得てきたいという意向を、幕府側が早くからアメリカ側に提示していたのだった。

安政7(1860)年1月18日、新見豊前守正興を正使とした遣米使節団が米国軍艦ポウハタン号に乗り込むと、一行は一路サンフランシスコへと旅立つ。その後、パナマを経てワシントンでブキャナン大統領と批准書を交わすと、アメリカ側からの提案もあって、ニューヨークからナイアガラ号に乗って大西洋、インド洋を航海し、日本に戻ってきている。小栗上野介は初めて世界一周をした日本人の一人であったのだ。

一方、ポウハタン号の護衛艦という名目で、軍艦奉行木村摂津守喜毅や勝海舟を乗せた咸臨丸は、サンフランシスコに到着後、ハワイを経由して帰国しているにすぎない。ところが、世間では咸臨丸の功績ばかりが取り上げられ、果ては咸臨丸が日本人初の太平洋横断をしたとか、日本人だけの力で太平洋を横断したなどということがまことしやかに語られている。

実際はと言えば、江戸時代初めに京都商人の田中勝助が徳川家康の命令によって太平洋横断を果たしており、また、外国人乗組員11名が同船していなければ、大嵐の影響で咸臨丸は海の藻屑となっていたことだろう。

小栗上野介について私が調べるきっかけになったのは、こうした出来事を一つひとつ洗い出してきたことに端を発する。そもそも私が住職を務める東善寺は小栗上野介ゆかりの寺であったが、若い頃は教科書でもほとんど触れられていない小栗上野介に関心を寄せることはあまりなかった。

そんな私にとって、咸臨丸の一件に加え、地元高崎市倉渕町では小栗上野介が「小栗様、小栗様」と親しまれてきた存在であったことが、大きな後押しとなったことは間違いない。本気で小栗上野介について調べようと思い立ったのは、30代半ばのことだった。

おそらく多くの日本人は小栗上野介についてほとんど知らないであろう。それもそのはず、明治以来、学校教育の流れの中で、小栗上野介の功績は一切取り上げられてこなかったからだ。なぜか。

小栗上野介は幕府解散後、明治新政府軍の手によって何の取り調べもないまま斬首されている。その明治政府が全国に学制を敷き、学校教育を始めるにあたって、仮に歴史の授業で小栗上野介が大変な功績ある人物だったと教えるようになれば、当然、誰が殺したのかという話にならざるを得ない。

それゆえに明治以降の学校教育では小栗上野介を表に出すことはなく、出さざるを得ない場合には逆賊のイメージを植えつけるようにしてきたのだった。そしてその影響は現在にまで及んでいる。
 
本欄では、明治維新以降今日に至るまで、長きにわたって歴史の闇に埋もれたままでいた小栗上野介の功績を詳らかにしていく。

東善寺住職

村上泰賢

むらかみ・たいけん

昭和16年群馬県生まれ。駒澤大学文学部卒業。小栗上野介顕彰会理事。編著に『小栗上野介のすべて』(新人物往来社)、著書に『小栗上野介』(平凡社新書)がある。