2017年8月号
特集
維新する
インタビュー①
  • 榮太樓總本舗社長細田 眞

温故知新の精神で
本物の味を追求する

江戸時代創業の榮太樓總本舗。一貫して本物の味と品質にこだわる菓子業界の老舗だが、時代の流れの中で様々な革新を繰り返し、成長を遂げてきた。社長の細田 眞氏に今日までの歴史を振り返りながら、経営に懸ける思いを語っていただく。

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品質への徹底したこだわり

──平べったい円い缶に入った「榮太樓飴」といえば、東京土産としてすっかりお馴染みですが、御社の創業は江戸時代にまで遡るそうですね。

文政元(1818)年、埼玉の飯能で菓子の商いをしていた細田徳兵衛が二人の孫を連れて江戸に出て、九段下で瓦煎餠を焼いて販売したのが最初だと言われています。商いが一つの転機を迎えたのは徳兵衛の曾孫・栄太郎(後の安兵衛)の時代でした。安兵衛は病弱な父親を助けるために、魚河岸(日本橋から江戸橋にかけての魚市場)で金鍔を焼くようになったのですが、これが「大きくて甘くておいしい」と評判になったんです。
金鍔の味だけでなく、親孝行で気前がよかった安兵衛の噂は江戸中に広まって商売が繁盛し、安政4(1857)年には日本橋に店を構えて独立しました。これが榮太樓の創業です。いまも当社1階の店舗内には当時の敷石がそのまま残っています。

──徳兵衛さんから数えると、来年(2018年)で200年ですか。

はい。細田家の当主が代々安兵衛の名を継いでおりまして、私は社長として第八代ということになります。
江戸時代から明治初期にかけては魚河岸の人たちに可愛がられて商売も順調でした。と同時に創業者の安兵衛は創意工夫の人だったようですね。当時、菓子といえば茶の湯の世界で用いられる、高級な嗜好品でした。しかし、安兵衛は自分は魚河岸の人たちに育てられたという思いがありましたので、それに報いるためにも安い材料で広く菓子を提供したい気持ちが強かったんです。
例えば、有平糖を使って花、魚、鳥などをデザインする有平細工という高級菓子がその頃からありましたが、庶民でも口にできるようにと考えて創ったのが、いまも当社の人気商品の一つである「梅ぼ志飴」なんですね。これは砂糖を煮詰めて冷やして固め、紅花で着色した商品です。
それから、安兵衛は安価な雑穀と言われていたささげ豆を上手く処理して甘名納糖を開発しました。私どもは甘納豆の元祖であり、これが日本のスナック菓子の走りだと言っています。
このように、安兵衛はお客様の近いところにいて、お客様に喜んでいただくことを考え続けた菓子商でした。それがいまも商いの精神になっているんです。

──長い歴史の中では試練に見舞われた時期もあったのではありませんか。

この一帯は東京の中心部ですから、関東大震災でも東京大空襲でも大変な被害を受けました。震災の時は、無事だった目白の自宅にあった原料や材料を日本橋まで運んで何とか急場を凌いだそうですが、空襲だけはどうにもならなかったと聞いています。
戦時中は砂糖が配給され、細々とながら菓子を作っていました。しかし、東京が焼け野が原になるとそれもできなくなって、1年半ほどは事業を中止せざるを得なくなりました。その後、喫茶部門を立ち上げたり、ジャムや佃煮を作ったり、菓子以外でもできることは何でもやったようですね。
当時は曾祖父の時代ですが、創業者の教えを守り、どんなに厳しい時代でも決してあくどい儲け方をしてはいけないということを常に肝に銘じてきたといいます。

──現在はどういうことに力を入れられていますか。

和菓子屋ですから、金鍔や水羊羹なども取り扱っていますが、売り上げの半分以上は飴なんです。それも、ただ売れればいいというのではなく、人工の香料や着色料、添加剤は一切使わずに天然の果汁を用いるなど製法や品質にとことんこだわっています。
人工の香料などを使っていない飴は、おそらく世界でうちだけでしょう。海外から調達した安い原料でも我われの技術で加工すれば、そこそこのものはできます。しかし、そこで安易な妥協をすれば、我われの評価はなくなってしまうと思っているんです。
先ほどの「梅ぼ志飴」について申し上げれば、江戸末期や明治の頃と比べて砂糖の精製技術は確実に高まっていて、当時よりも高品質なものができるようになっています。そこに加える水飴などの量や質を高めることで、榮太樓らしい味に近づいてきているという自負があります。

榮太樓總本舗社長

細田 眞

ほそだ・まこと

昭和29年東京都生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、日本郵船勤務を経て58年榮太樓總本舗に入社。平成20年社長に就任。