2023年4月号
特集
人生の四季をどう生きるか
対談
  • NPO法人いのちをバトンタッチする会代表鈴木中人
  • 『命の授業』講演家腰塚勇人

人生の苦難が
教えてくれたこと

「人生の四季」には、春夏秋冬の時が移り変わる四季、そして喜怒哀楽を経験する中で深まりゆく心の四季がある——。愛する娘の死、首の骨を折る大怪我……様々な人生の四季、悲嘆の時を乗り越え、講演活動を通じて命の大切さ、尊さを多くの人々、子供たちに語り続けているのが鈴木中人氏と腰塚勇人氏である。命の大切さを伝えるという使命に生きるお二人に、一度きりの人生を悔いなく生きる要諦、心の持ち方を語り合っていただいた。

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原点があるから続けられる

鈴木 腰塚さんと初めてお会いしたのは10年ほど前、東京で行われた鍵山秀三郎ひでさぶろう先生の「日本を美しくする会」の総会でした。そこで名刺交換をさせていただいて……。

腰塚 ええ、そうでした。次にお会いしたのは、コロナ前に静岡の伊東で行われた総会でしたよね。懇親会のテーブルが同じになってお話しさせていただきました。

鈴木 ですから、お互いに「命(いのち)」をテーマにした講演活動に長く携わっていながら、こうして2人きりでお話しをするのは実は初めてのことなんですよね。
でも、講演で各地の学校を回りますと、腰塚さんが書かれた色紙が必ずと言っていいほど校長室などに飾ってあり、いつもお会いしている感覚があるんです。

腰塚 私も同じですよ。最近も宮崎の小学校に講演に伺ったら、そこの校長先生が鈴木さんの大ファンで、「何回も来ていただいています」とおっしゃっていました。
その校長先生に、「今度、鈴木さんと対談するんですよ」って伝えたらすごく喜ばれていました。

鈴木 しかし、こうして腰塚さんのお姿を拝見すると、ご自身の体の調子もある中で、命をテーマにした講演をずっと続けてこられたことに心から感服します。というのは、やっぱり、命って愚直なテーマです。こうすればもうかります、れいになりますというような人目をく内容ではないですから、続けていくのがすごく難しい。

腰塚 私がここまで講演活動を続けてくることができた大きな理由、原点は、やっぱり、もともと教師だったということと、2002年36歳の時に首の骨を折る大をして、命と向き合った実体験があるからですね。
大人もそうですけれども、いま子供たちのいじめや自殺、うつ病が全然減っていかないという現実がある中で、怪我の経験の話ですが、一人でも子供の命を助けることができたら……。それは鈴木さんも同じだと思います。

鈴木 原点になった大怪我について改めてお話しいただけますか。

腰塚 当時の出来事はいまも昨日のことのように覚えています。
私は中学2年生の担任を務める体育教師だったのですが、事故に遭った時は、休日を利用し、スキー検定を受ける妻と一緒に長野のスキー場で練習していました。
私自身、スキー検定1級を持っていたこともあり、急斜面でも雪のコブでもうまく滑れる自信がありました。ところが、スピードを出し過ぎ、コブに乗り上げてバランスを崩し、後頭部から雪面に叩きつけられてしまったんです。

鈴木 後頭部から雪面に……。

腰塚 その瞬間、首の骨から「バッキィィィ!」というおそろしい音が聞こえてきましてね。数十メートル斜面を転がり、ようやく止まったので起き上がろうとしたところ、首から下がまったく動きません。それで病院に運ばれて、4時間にわたる大手術が行われました。
しかし、集中治療室で麻酔から目が覚めても、相変わらず首から下が全く動かなかったんです。
私は怪我をする前、信念にしていた言葉が「常勝」で、常に戦いモードで生きていました。そうして結果が出たら、「俺が頑張ったんだ!」というように、何事も自分中心に考えていたんですね。
それが、命は助かっても手足が動かなくなり、何をするにも人の手を借りなければいけなくなってしまった。自分が1番したくなかった生き方で、そのギャップというか、いままで積み上げてきたものがなくなった絶望感、喪失感はすさまじいものがありました。

NPO法人いのちをバトンタッチする会代表

鈴木中人

すずき・なかと

昭和32年愛知県生まれ。56年デンソー入社。平成4年長女の小児がん発病を機に、小児がんの支援活動、「いのちの授業」等に取り組む。17年会社を早期退職し「いのちをバトンタッチする会」を設立。1,000校を超える学校を訪問、講演や企業研修には30万人が参加。小学校道徳の教科書にもなる。著書に『子どものための「いのちの授業」~小児がんの亡き娘が教えてくれたこと』(致知出版社)、共著に『「いのちの授業」をつくる』(さくら社)などがある。

人生は自分がしたことがそのまま返ってくる

鈴木 その絶望からどのように再び前を向いていったのですか。

腰塚 つらいし苦しいし、「助けてっ!」って言葉が口元まで出かかっているけれども、プライドが邪魔して言えない。弱音を吐けばさらに家族に心配をかけてしまうと思うと、なおさら言えませんでした。そしてこんな状態で生きていく意味が分からず、とうとう自分で舌をんだのです。

大怪我をした後の腰塚氏

鈴木 自ら命を絶とうと。

腰塚 結局は死に切れなくて、あとは生きるしか選択肢がなくなりました。そんな時、絶望を希望に変えてくれたのが、看護師さんやリハビリの先生の言葉であり、家族の支えだったんですね。
ある晩、辛くて寝付けないでいると、看護師さんが「寝ないと持ちませんよ。睡眠剤が必要だったら言ってね」と声を掛けてくれました。ところが、私は「俺の気持ちが分かってたまるか」って、無意識に看護師さんをにらみつけてしまったんです。そんな私の様子に気付いた看護師さんが、泣きながらこう言ってくださったのです。
「腰塚さんの辛さは本当には分かってあげられないけど、私にできることは何でもしますから、我慢しないで言ってくださいね……」

鈴木 素晴らしい看護師さんです。

腰塚 看護師さんが去った後、私も涙がぶわっとあふれて、この人だったら「助けて」って言えるかもしれないと初めて思えました。
あと忘れられないのが、リハビリの先生がおっしゃった「手足は動かなくても、決してすべては失っていない。命と未来は残っている」という言葉です。だから、一緒に頑張っていこうと。この「一緒に」がつくだけで、頑張れの意味が全然違って聞こえました。そして、妻も病院の近くにアパートを借り、毎日朝から晩までつきっきりで世話をしてくれました。
そこから、一人で頑張らなくてもいいんだ、助けてくれる人がいるんだって、手足は動かなくても少しずつ気持ちが元気に前向きになっていきました。そうなると、医師の先生や看護師さん、リハビリの先生ともすごく仲がよくなって……。首の神経がすべて切れていなかったことが幸いし、3週間後に奇跡的にくるまに移れるまで回復したんです。

鈴木 ああ、心が前向きになったことで体も回復していった。

腰塚 事故に遭った事実は変えられなくても、自分の心、起こったことの見方は変えることができます。そして生き方を「常勝」から「常笑」に変え、いつも笑顔でいよう、感謝しよう、周りの幸せを願おうと決意したら、日々の当たり前のことがどれだけ幸せなことか、自分はどれだけ周りの人に助けられ、生かされているかが実感できるようになりました。

心の持ち方を変え、奇跡的な回復を遂げた腰塚氏。両親と共に

鈴木 辛く苦しい中で、貴重な気づきを得ていかれたのですね。

腰塚 と同時に、自分はたくさんの人たちに命と人生を助けてもらったのだから、今後は自分が少しでもお返ししたいと思うようになりました。私は、自分の可能性を信じて夢を応援してくれる人を「ドリーメーカー」と呼んでいるのですが、今度は自分が「ドリー夢メーカー」になろうって。
それで、その時、怪我をする前から受け持っていた2年生のクラスの生徒たちを、3年生になってもまた担当したいという夢を抱いていたんですね。ただ、病院を訪ねてきてくださった教頭と学年主任の先生にその思いを打ち明けたところ、教頭は「まずはリハビリに専念しなさい」と。学年主任は、「気持ちは管理職に伝えておくね」と言ってくれましたが、おそらく無理だろうと思っていました。
ところが、3月末にもう一度病院まで来てくださった学年主任が、あなたへのプレゼントよって1枚の色紙を渡してくださいましてね。裏返してみると、「3年1組腰塚級」とあって、39名の生徒の名前が記されていたんです。

鈴木 夢がかなったんですね。

腰塚 その際、学年主任が私にくださったのが次の言葉でした。
「あなたは気づいてないかもしれないけれど、怪我をする前、あなたはたくさんの先生や仲間、子供たちを応援して助けていたのよ。だから、今度は皆があなたを助けてあげたいと思ったんだよ。人生はよくも悪くも自分がしたことを人からされるだけなの。このことを覚えておきなさい……」
さらに私が「助けてもらって嬉しい。自分も何か恩返しがしたい」と伝えたら、「恩返しなんてしなくていい。恩送りって言葉があるのよ。周りの人を少しでも助けてあげる恩送りの人生を送りなさい」って言ってくださってね。
これが本当に原点になって、辛いリハビリにも耐えることができました。そうして事故から4か月後の6月24日、自分の足で病院を後にすることができ、7月には夢にまで見た学校に復帰することができたんです。医師には、「首の骨を折ってここまで回復した人は、いままで治療した中では腰塚さんだけだ」と言われました。

『命の授業』講演家

腰塚勇人

こしづか・はやと

昭和40年神奈川県生まれ。大学卒業後、中学校の体育教師となる。平成14年スキーの転倒事故で首から下が全く動かなくなる重傷を負うが、多く方の支えのもと、心のあり方を転換し、奇跡的な社会復帰を果たす。その後、教職を辞し、自らの体験をもとに講演家として「命の授業」を展開。開始から12年で命の授業の回数は2100回を超え、聴講した人は80万人を超える。著書に『命の授業』(ダイヤモンド社)『気もちの授業』(青春出版社)などがある。