2026年12月号
特集
住するところ
なきを
花と知るべし
一人称
  • 上州ろうあ魂代表牧山定義
ろうあ者の一家に生まれた私がいま伝えたいこと

人は
自分のためだけに
生きるのではない

群馬県前橋市に住む牧山定義さんは祖父、両親、きょうだいすべてが生まれつきのろうあ者という家庭に生まれた。牧山さんご自身もろうあ者である。差別、偏見の激しい時代背景の中、一家は必死に道を切り拓き、牧山さん自身も人間学の学びを糧に長年、ろうあ運動に取り組んできた。これまでの歩みを振り返りながら伝える牧山さんの渾身のメッセージ。

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    上州ろうあ魂代表

    牧山定義

    まきやま・さだよし

    昭和40年群馬県生まれ。県立聾学校卒業。大手ベアリングメーカーに長年勤務する一方、前橋市を拠点にろうあ者の権利擁護などの運動に携わってきた。現在も上州ろうあ魂代表として講演や演劇活動、新聞「声」欄を通した啓発など幅広い活動に取り組んでいる。

    「一人でも生き抜け。前だけを見て走れ」

    私や私の家族が生きてきた環境は、傍はた目めにはいささか特殊な世界として映るかもしれません。

    私は耳が聞こえず、言葉を発することも叶かないません。しかも、それは私だけではありませんでした。祖父も両親もきょうだいすべてがろうあ者として歩んできたのです。

    それでも戦前、戦中、戦後という、いまでは想像もできないほど厳しい時代を生き抜いた祖父や両親は、聞こえないという困難に屈することなく人としていかに生きるべきかを、その生涯を通して私に教えてくれました。

    ここでは私や家族の人生を辿たどりながら、還暦を迎えた私が一人のろうあ者としていま感じる率直な思いを皆様にお伝えできたらと思っています。

    私が伝えたい一つの大切なメッセージ。それは同じく耳が聞こえなかった母・昌子から聞いた戦争の記憶です。

    東京大空襲前日の1945年3月9日、母方の祖父・小泉釜太郎と母は、食べ物を分けてもらうために東京・荒川に住む知り合いを訪ねていました。祖父は当時42歳、母は10歳。宿の部屋に突然石が投げ込まれたのは、この日の深夜のことでした。窓ガラスが割れる衝撃と振動で目を覚ました祖父が窓の外を見ると、あちらこちらで火の手が上がり、逃げ惑う多くの人の姿が目に留まりました。祖父は母を叩き起こして、すぐに外に飛び出しました。

    窓ガラスを割ったのはおそらく近所の人なのでしょう。祖父は隣近所の人や宿泊先の隣部屋の人たちに食べ物を与えて、いざという時には叩き起こしてほしいと伝えていました。耳の聞こえない父子にとって近所の助けはなくてはならないものだったのです。

    鳴り響く空襲警報、敵機の接近を伝えるラジオの音声、防空壕への避難を呼びかける声……しかし、生死を分けるこれらの情報が全まったく聞こえない2人は、ただ必死に炎を避けて逃げる他ありませんでした。祖父は、いざという時に自分の手を握ったままでは、2人とも戦火から逃げ切れないと考えました。そこで、自分の命を守るため、母に前を向いて走るように伝えたのです。まるで地獄絵図のような状況下、一人取り残されて震える母の脳裏に、普段から聞かされていた祖父の教えが蘇よみがえってきたといいます。

    「一人でも生き抜け。前だけを見て走れ」

    母は「もしもの時は上野公園の西郷さんの像の前で待ち合わせよう」という祖父の言葉を思い出して上野公園まで歩くことにしました。焼しょう夷い弾だんで髪が焦げつきながらも必死に上野公園に辿り着き、そこで幸いにも祖父と再会。眩まぶしい朝日の中、2人は焼け野原になった東京から自宅があった千葉に向かって歩き始めるのです。

    祖父は母がまだ幼い頃に離婚していましたが、母を遠い学校まで徒歩で通わせて足腰を鍛えさせるなど厳しくも優しい愛情を注ぎました。そういう日々の鍛錬が空襲という試練を乗り切る力となったのかもしれません。

    祖父と母が住んでいた千葉の自宅には、やがて親戚が同居するようになります。しかし、親戚は耳が聞こえない2人には分からないと思って悪口を浴びせ続け、ついには食事の量さえも減らすようになりました。母は唇の動きから会話を読み取っていました。

    「殺さつ戮りくだけではない。人間を一変させてしまう。そこにも、戦争の恐ろしさはあるんだよ」

    当時を振り返り、母は私によくそのように話してくれたものです。

    酷ひどい仕打ちに耐えかねた2人は慣れ親しんだ自宅を離れ、東京の知人の家に身を寄せようとしますが、すでに空襲で焼失しており、不衛生な簡易宿所での生活を余儀なくされました。そして、過酷な環境が災いしたためか、祖父は病に感染し僅わずか数日で息を引き取ってしまいます。終戦から3か月後のことでした。

    その後、母は一いっ旦たんは千葉の家に戻るものの、食事もまともに与えてはもらえず、再び家を飛び出し、上野公園周辺で野宿をしながら煙草の吸い殻を集めて換金するなどして生き延びるのです。

    終戦から1年余が経った頃、母は幼少期に生き別れた実母に引き取られました。既に再婚相手がいて気乗りがせず、戦争孤児として生きる道も考えたそうですが、「自分のお母さんなのだから、一緒にいたほうが幸せになれるよ」という周囲の勧めもあり、群馬県前橋市の実母の家に住むようになりました。子守りや仕事をしながら聾ろう学校に通い、16歳で小学部を卒業。後に同じく耳が聞こえない牧山嘉か一いちと結婚し、1965年、私が誕生するのです。