2018年6月号
特集
父と子
  • 大阪市史料調査会調査員生駒孝臣
歴史に見る父と子

楠木正成と正行

我が国の歴史を紐解けば、そこには私たち日本人の心を打つ史実が数多く存在する。楠木正成とその子正行の別れを描いた「桜井の別れ」もその一つであり、時代を超えて多くの日本人に愛されてきた。父と子の理想像と目される歴史の一場面はどのように誕生したのか。中世日本史に詳しい生駒孝臣氏に、当時の時代背景を踏まえて語っていただいた。

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息子に託した父の思い

足利あしかが尊氏たかうじ直義ただよし兄弟が兵庫から九州へ敗走──。この知らせに歓喜したのは後醍醐天皇以下、それを取り巻く公卿くぎょうたちだった。かつて栄華を誇った平家が都を追われ、西国の地で最期を遂げたという歴史的事実にかんがみれば、これですべて片がついたと思うのは無理もないことだったと言えよう。
 
しかし、戦勝ムードが漂う中、一人その状況を冷静に見ていた人物がいた。足利軍を九州へと追いやった立役者の一人、楠木くすのき正成まさしげである。尊氏はいずれ西国を平定し、再び京都へと攻め上がってくるに違いない、というのが正成の読みだった。その理由は明確だ。鎌倉幕府滅亡後に行われた「建武けんむの新政」は人事の問題などから不評を極め、それゆえに後醍醐天皇の人望が著しく低下していたのに対して、尊氏は天下の武士たちの信頼を着々と集めていたからにほかならない。
 
危機感を募らせた正成は、後醍醐天皇に尊氏との和睦わぼくを進言するが、涙ながらの訴えは聞き入れられることはなかった。元号が建武から延元えんげんに改元された1336年2月のことである。
 
正成の予想どおり、尊氏、直義兄弟が九州を平定し、大軍を率いて東上してきたのは同年4月に入ってのことだった。後醍醐天皇は新田にった義貞よしさだを兵庫に急行させて防衛に当たらせるとともに、正成にも兵庫に駆けつけるよう命じている。
 
しかし、正攻法ではとても勝ち目がないと見て取った正成は、新たな作戦案を申し出る。足利軍をいったん京都に誘い込んで通路を封鎖し、兵糧攻めにした上で、一気に殲滅せんめつするというものだ。だが、この献策もあえなく却下されてしまった正成は、もはやこれまでと覚悟を決め、500騎ほどの手勢を率いて京都から兵庫へと向かっていったのだった。
 
一路、西国街道を進む途中、正成は摂津国せっつのくにの桜井においてある決断を下す。それは最後まで供を望んでいた当時11歳の嫡男ちゃくなん正行まさつらを、楠木一族の本拠地、河内国かわつのくにへと帰すことであった。
 
正成の死から40年後に書かれた軍記物語『太平記たいへいき』において、楠木正成・正行親子がそろって登場するのは、唯一この場面しか存在しない。にもかかわらず、この象徴的な親子の一場面は、能や唱歌などの題材として用いられ、今日に至るまで「桜井の別れ」として長く語られてきた。
 
ほんのわずかな史料に基づく一つの物語が、人々の想像力によって時代とともにより真実味を持って語り継がれてきたのは、そこに父と子の一つの理想像を、多くの日本人が見て取ったからであろう。

『太平記』には父・正成が息子に対して掛けた言葉が、次のように書き記されている。

「多年の忠烈ちゅうれつを失いて不義の振る舞いを致すことあるべからず。名を後代に残すべし。これをなんじが孝行と思うべし」
 
今回の合戦で自分が討ち死にすれば、足利尊氏の天下となるだろう。だが、これまで自分たちが貫いてきた後醍醐天皇に対する忠義を忘れて、降参するようなことがあってはならない。忠義を貫いて後世に名を残すことが、私への親孝行だと思いなさい、と正成は息子に教え諭している。
 
正行は父との別れの場面で、何を思ったのだろうか。その思いがつづられた記録は何も残されていない。ただし、後ほど触れるように、正行のその後の行動からその思いを推し量ることは十分にできると言えよう。
 
さて、息子正行と別れ、兵庫で新田義貞と合流した正成は、すぐさま尊氏、直義兄弟との決戦に備えた。そして義貞は和田岬、正成は湊川みなとがわにて、それぞれ足利軍を迎え撃ったものの、兵力の差はいかんともしがたく劣勢に立たされる。義貞はたまらず撤退し、京都へと落ちのびていった。
 
正成もまた、敵陣を突破して落ちのびることができたにもかかわらず、一歩も引くことはなかった。既に自らの死に場所を、ここだと決めていたのだろう。激戦の末、湊川の北にあった民家に入り込むと、一族郎党とともに切腹し、その生涯を終えたのだった。

大阪市史料調査会調査員

生駒孝臣

いこま・たかおみ

昭和50年三重県生まれ。大阪教育大学教育学部卒業。平成12年名古屋大学大学院文学研究科博士前期課程日本史学専攻修了。21年関西学院大学大学院文学研究科博士課程後期課程日本史学専攻修了。博士(歴史学)。現在、大阪市史料調査会調査員、関西学院大学及び関西大学等で非常勤講師を務める。著書に『楠木正成・正行』(戎光祥出版)など。