2017年5月号
特集
その時どう動く
インタビュー②
  • NPO法人LiFESET代表理事櫻井 理

まず動く、そこから
道はひらける

筋ジストロフィーという難病と闘いながら、障碍者の就労支援などを目的にNPO法人を設立した人物が仙台にいる。櫻井 理氏である。呼吸困難や東日本大震災など幾度も命の危機を乗り越えてきた中で、櫻井氏はどういう世界を摑んだのだろうか。

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僕にしかできない社会貢献

──櫻井さんは昨年(2016年)、障碍者の就労支援などを目的としたNPO法人を立ち上げ、代表理事として活動されていますね

僕たちは、障碍のあるなしに関係なく、あらゆる世代の人々がよりよく生きられる地域社会の実現を目指して活動をスタートしました。ITスキルを活用した就労支援のほかに、僕の体験や思いを伝える講演活動、復興支援などにも取り組んでいます。
僕は24時間人工呼吸器が手放せない状態ですが、ありがたいことに小学校からの友人・伊藤伸一が僕の思いに共鳴してくれて、ともに代表理事を務めてくれているんですね。他にも地元・仙台の有力者などに役員をお願いしています。そういう人たちとともに、僕にしかできない社会貢献を実現していきたいと思っているんです。
筋ジストロフィーという病気は進行性の疾患で、人工呼吸器が普及する以前は20歳まで生きるのが難しいと言われていました。それが医療の進歩によって、僕は平均寿命の32歳を大きく上回る41歳を迎えることができました。難病と向き合いながらこの歳まで生きられたのは、多くの皆様のおかげですので、これからは僕自身が支援の担い手となって、恩返しをしたいと思っているところです。

──発病されたのは何歳の時でしたか。

6歳です。幼稚園の運動会の時、徒競走がとても遅くて転びやすかったんですね。先生が気にかけて、両親に検査を勧めてくださいました。両親は病気のことについて僕に話すことはしませんでしたが、医師から「息子さんは20歳までしか生きられない」と告げられた時はとてもショックだったようです。そこから病気と向き合う生活が始まった、という感じですね。
車椅子を使うようになったのは小学4年生からです。先生方の間では安全面を考慮して支援学校に転校させたほうがいいという声もあったようですが、当時の校長先生、担任の桃野亀一先生がとても理解がある方で、「卒業までは面倒を見る」と言ってくださったんです。

──中学校は普通学校に?

地元の中学校に進学を希望したんですが、車椅子は受け入れが難しいと言うので、入院しながら病院に隣接する養護学校中学部に進むことになりました。成長とともに心臓の機能が衰え投薬の量も増えるので、体調はいつも不安定でしたね。腕が思うように動かせなくなり、車椅子を手動から電動に切り替えたのもその頃です。
この養護学校には当時高等部がなかったんですね。僕は普通高校に進学したいという思いが強くて、受験勉強をして仙台市立仙台高校に進みました。高校時代まではまだ車椅子で授業を聴きながらノートを取れる状態でしたが、だんだんとそれも難しくなりまして……。

NPO法人LiFESET代表理事

櫻井 理

さくらい・さとる

昭和50年宮城県生まれ。6歳で筋ジストロフィー症と診断される。仙台市立仙台高校卒業後、障碍者支援活動に携わる一方、自立のための活動に取り組む。平成28年NPO法人LiFESET設立。26年には第28回人間力大賞にて、厚生労働大臣奨励賞受賞。