2026年9月号
特集
めざすものを持つ
一人称
  • ペシャワール会PMS支援室 室長藤田千代子

それでも、
人は愛するに足り、
真心は信ずるに足る

中村哲医師と共に歩んで

パキスタン、アフガニスタン両国で長年、人道支援を行い、2019年に非業の死を遂げた中村哲医師。その中村医師の下で30年にわたり看護師として活動を共にしてきたのが藤田千代子さんである。医療だけでなく、灌漑事業による農業復興など様々な支援を通して人々を病や飢餓から救ってきた中村医師の志を、藤田さんはいまどのように受け継いでいるのか。

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    中村 哲

    なかむら・てつ

    昭和21年福岡県生まれ。九州大学医学部卒業後、精神科医に。59年パキスタン北西部ペシャワールの病院に赴任、医療支援に取り組む。アフガニスタンを大干魃が襲って以降は水資源の確保にも取り組み1600本以上の井戸を掘削。27キロにもおよぶ用水路を建設、砂漠化した大地に緑を蘇らせた。令和元年何者かに銃撃され死亡。享年73。

    ペシャワール会PMS支援室 室長

    藤田千代子

    ふじた・ちよこ

    昭和33年鹿児島県生まれ。鹿児島市の看護学校を卒業後、福岡徳洲会病院に勤務。平成2年からパキスタン・ペシャワールで診療に携わる。令和3年功績を残した看護師らに贈られるフローレンス・ナイチンゲール記章受章。

    何事もなかったかのように仕事を進めなさい

    パキスタンやアフガニスタンで人道支援を続けていた中村哲先生が銃弾にたおれて今年で7年。改めて月日の流れは早いものだと驚いています。事件が起きた2019年12月4日、ペシャワール会(中村医師の活動を支援する組織)の一員として、日本で後方支援に当たっていた私は、突然の衝撃に言葉を失い、喪失感は長い間消えることはありませんでした。

    中村先生と共に現地で活動に当たっていた職員たちが受けたショックはそれ以上で、「ドクター・サーブがいなくなった」「これからどうしたらいいのか」と泣き叫びながら、福岡のペシャワール会本部に電話をかけてきた職員の声がいまも耳に残っています。

    中村先生がパキスタン、アフガニスタン両国で手掛けたのは医療支援だけではありません。大かんばつに襲われたアフガニスタンの現状を目にした先生は、2002年、農業復興をめざす「緑の大地計画」を立案、大河から水を引く用水路建設を自ら陣頭指揮し、7年間で25キロを開通させることで砂漠化した大地をよみがえらせたのです。

    これらの足跡はあまりにも大きく、指導者を失ったことへの不安感も言葉では言い尽くせないものがあったのでしょう。

    職員たちの気持ちを受け入れながら、自分の心を必死で立て直す毎日を送っていた時、ふと中村先生の言葉が頭に浮かびました。

    「何事があっても、何事もなかったかのように仕事を進めなさい」

    打ちひしがれた皆の気持ちを立て直す特効薬は、中村先生が取り組んできた事業を継続させることだと直感した私は、現地の職員と頻繁ひんぱんに連絡を取り合いながら、それが何よりも先生の思いに応えることになると伝え続けたのです。

    しばらくして、ペシャワール会と、先生が設立した現地の担い手組織PMS(平和医療団・日本)のメンバーがインドに集い、先生の事業を継続することを誓いました。併せて誓い合ったのは、先生がやろうとしてやれなかった希望もかなえようということでした。

    その一つが貯水池の造設です。アフガニスタンは日本と似た地形で、山岳の積雪が緩やかに溶けることで地下水が保たれてきました。しかし、地球温暖化により積雪が減り、日本で先人たちが無数の溜め池をつくる前と同様に、雨が降っても一気に流れ去ってしまうために、限られた水を有効活用できる貯水池が必要と先生は考えました。これを受けPMSでは、近年、貯水池をつくり融雪水や降雨時の洪水や湧き水を池に導水する事業を実施しており、今年10月からの次期事業では、谷あいにつくる堤を含む池を10数か所建設し、730ヘクタールを潤す計画です。

    医療面では、2025年、アフガニスタン東部の市に中村哲記念ハンセン病センターを開所し、ハンセン病診療が再開されました。

    中村先生は1984年、パキスタン北西部のペシャワールの病院に着任した当時、ハンセン病棟の担当医でした。国境に近いアフガニスタンの山岳地帯からもハンセン病患者が次々と訪れ、先生は山岳地帯にいくつもの診療所を開設しましたが、治安悪化により一か所を残し政府へ譲渡。加えてマラリア、腸チフスなど緊急性の高い病気が多いため、慢性的なハンセン病治療は後手後手になっているのが実情でした。それだけにアフガニスタンでの診療の再開は先生の強い念願だったのです。

    先生はまた、干魃対策としてサツマイモの普及を推進したいと願っていました。サツマイモは肥料が要らず荒れ地でもよく育つ作物で、食糧不足を補うにはもってこいです。これも試行錯誤の末に試作栽培に成功し、大きな期待が寄せられているところです。

    この7年間、物理的に不在となった先生が遺した事業は日本とアフガニスタンで多くの人たちが手を携えて受け継ぎ、少しずつ形になっていることに私自身、大きな喜びを覚えています。その核にはいつも「中村哲」がいるのです。