2024年9月号
特集
貫くものを
対談
  • 鵤工舎総棟梁小川三夫
  • 第十五代目穴太衆頭粟田純德

先人たちの
技と心が教えて
くれるもの

「最後の宮大工棟梁」と称された西岡常一氏の弟子としてその技と精神を継承すると共に、自ら立ち上げた鵤工舎(奈良県)の総棟梁として後進の育成に心血を注いできた小川三夫氏。十五代目穴太衆頭で粟田建設社長の粟田純德氏もまた、古墳時代にまで遡る独自の石垣づくりの技法を現代に脈々と継承してきた。宮大工と石工、それぞれの道を極めてきたお二人が語り合う、心に刻む先人や師の教え、人生・仕事で貫いてきたもの――。

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本対談は、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじふもと、滋賀県大津市坂本にある粟田建設本社にて行われた。周辺には穴太あのうしゅうの手による堅固けんごで美しい石垣が点在し、「石積みの里」として先人の技と心をいまに伝えている。

現代でも真似できない先人たちの知恵

いまも大津市坂本の地に残る穴太衆の石垣(写真提供:粟田建設)

小川 粟田あわたさん、初めまして。
きょうは戦国時代の石垣づくりの技術を受け継ぐ「穴太衆」について、いろいろお伺いできるのをとても楽しみにしていました。

粟田 こちらこそきょうは遠方からお越しくださり、ありがとうございます。私もお目に掛かれることを楽しみにしておりました。

小川 致知出版社さんから今回のお話をいただいた際、これは面白い企画だなと思いました。というのも、私たち宮大工が扱う木、穴太衆がいしとして扱う石、どちらも重いし、大きいし、それを動かすには知識じゃだめ、いろんな知恵を働かせなくちゃいけない。
例えば、大坂城の石垣にはものすごく大きな石が使われていますでしょう。あんな石は、当時の人は誰も動かしたことなかったはずですよ。でもそれを動かしたってことは、やっぱり知識以上のもの、知恵をうんと働かせたんです。
実際、どうやって動かしたと粟田さんは思いますか。きょうはこれをぜひ質問したかった(笑)。

粟田 どうでしょうか……。当時は機械がないので、馬や牛で石を引っ張るしかなかったのだと思います。しかし、仕事のしんちょく状況を調べてみると、便利な機械のある現代よりもはるかに昔のほうが早いんですよ。お城でも、2年や3年くらいで建てているのですが、いま私たちに同じことをやれと言われたって絶対にできません。石垣だけでも難しいでしょうね。昔の人は本当にすごいと思います。

小川 それは宮大工も同じで、例えば、名古屋城も石垣から天守閣までたった33か月でつくったと言われていますね。天守閣はわずか半年で建ち上がっている。もちろん何千人もの大工が集められたのでしょうが、それでもいまやれと言われたら絶対できませんよ。

粟田 ええ。何千人いたってそれをさいはいする人がいなければ動きませんし、邪魔になるだけです。
だから、私たちの仕事は自分たちで新しく考え、得られるものはほとんどないんですね。先人たちが考えたもの、知恵をそのまま継承してきたからこそ、いまがあるんです。むしろ私たちは便利な機械や知識がある分、いかに楽をするかということばかりを考えてしまう。昔の人のほうが現代人よりもよほど賢かったんじゃないかと思いますし、やはり人の手に勝るものはないと私は思っています。

鵤工舎総棟梁

小川三夫

おがわ・みつお

昭和22年栃木県生まれ。栃木県立氏家高校卒業直後に西岡常一棟梁の門を叩くが断られる。仏壇屋などでの修業を経て44年に西岡常一棟梁の内弟子となる。法輪寺三重塔、薬師寺金堂、同西塔の再建に副棟梁として活躍。52年鵤工舎を設立。以後、今日まで全国各地の寺院の修理、再建、新築などを続ける。著書に『木のいのち木のこころ(天・地・人)』(新潮文庫)『棟梁-技を伝え、人を育てる』(文春文庫)などがある。

コンクリートより強靭な「野面積み」

京都国立博物館の石垣。耐久性に優れているのみならず、自然にも優しく美しい穴太衆の石垣は、現代建築とも調和・融合する(写真提供:粟田建設)

小川 粟田さんが第十五代目頭を務める穴太衆は、代々この坂本の地で仕事をしてきたのですか。

粟田 ええ、代々ここを拠点に仕事をしてきました。ただ、もともと穴太衆は古墳時代に朝鮮から渡ってきた渡来系だといわれています。最初は古墳の石垣などをつくっていたのですが、次第に棚田の石垣といった生活に直結するものを手掛けるようになりました。
そして788年に比叡山延暦寺が創建されると、延暦寺や僧侶の宿坊などの石垣づくりに穴太衆が動員されます。その時に石工たちが拠点としたのが当時「穴太」という地域だったため、穴太衆と呼ばれるようになったんですね。
その後、穴太衆の名前が初めて世の中に出てきたのが、戦国武将・織田信長による安土あづち城の築城なんです。当時の石垣は低いものがほとんどでしたが、穴太衆には長年培ってきた石垣を高く、かつ堅固に積む技術がありました。
それに織田信長が着目して安土城に採用したことで、全国の大名たちからも石垣づくりを依頼されるようになっていったんです。

小川 具体的には穴太衆の技術は他とどのように違うのですか。

粟田 穴太衆が得意とする石積みは、大小の様々な自然石をほとんど加工せず、手で一つひとつ積み上げていく「づら積み」(穴太衆積み)です。もちろん自然石には同じ大きさ、重さ、形状のものはありませんから、野面積みの技術は書面などで残すことはできず口伝くでんのみで受け継がれてきました。

小川 ああ、口伝だけで。

粟田 地震大国の日本で、手で積んだ石垣が崩れないのかと思われるかもしれません。最初の頃は地震で崩れたりしていたでしょうけれども、やはり先人たちは試行錯誤の末に、衝撃に耐えられる積み方を生み出してきたんです。
例えば、穴太衆には「石は二番で置け」という教えがあります。石の表面から3分の1少し奥のところに重荷が掛かるようにしてうまく積んでいくわけです。そうすると、地震が来た時、それぞれの石が動いて衝撃を分散してくれるんですね。むしろ衝撃によって全体が締まり、より強い石垣になっていくように工夫しています。
また、土の〝水ぶくれ〟による崩壊を防ぐため、石垣の奥に栗石くりいし層、その奥に小石を詰めていくなどして排水をよくする工夫も施されています。

小川 驚くべき技術ですね。

粟田 実際、新名神高速道路が開通した際に、集荷装置でジャンボジェット1機分(250トン)の重さを掛け、穴太衆の石垣とコンクリートのどちらが耐久性に優れているか、実験したことがありました。結果、穴太衆の石垣は250トンの重さに耐え、コンクリートは約200トンのところで音を立てて割れてしまいました。

小川 手積みの石垣がコンクリートより強いことが証明された。
私も同じようなことを体験しました。私たちが東北に建てたお堂が東日本大震災で被害を受けたんです。衝撃で戸ががーっとゆがんで閉まらなくなってしまったのですが、その後、何度も余震を受けながら1か月ほどでもとに戻り、普通に閉まるようになりました。
また、地震の時に軒を支えるきょう(組み木)を見ると、ぎっしぎっし揺れている。ところが、屋根の棟はあまり動いていないんですね。要するに、昔の伝統建築は揺れの衝撃を吸収するようにつくられているわけです。やはり昔の人の知恵はすごいなと思います。

粟田 ただ、時代の変化と共に新しい石垣をつくる仕事はかなり減っていて、いまは既存の石垣の修理がほとんどなんですね。むしろ「駐車場にしたいから石垣を壊してほしい」という方も多い。このままでは、技術を伝承していくことも事業として存続していくことも難しくなってくるでしょう。

小川 由々しき状況ですね。

粟田 一方希望が持てるのは、私たちの技術を海外の方々が評価してくださっていて、海外での仕事が増えていることです。観光客の方も石垣にすごく関心を持って見てくださっています。興味がないのは本当に日本人だけです(笑)。

第十五代目穴太衆頭

粟田純德

あわた・すみのり

昭和43年滋賀県生まれ。中学を卒業後、城の石垣などを代々つくってきた家業を継ぐべく、祖父で十三代目の粟田万喜三に弟子入りする。平成17年に十四代目の父・純司の後を継いで十五代目を継承し、社長に就任。以来、全国各地、海外の石垣づくりや修復などを行うと共に、土木工事、造園工事なども請け負い、石垣づくりの技と伝統を守り続けている。