2017年4月号
特集
繁栄の法則
対談
  • 四川飯店オーナーシェフ陳 建一
  • 新宿割烹 中嶋2代目店主中嶋貞治

繁盛する店は
どこが違うのか

中華料理の神様と謳われた陳 建民氏が創業し、各界の一流どころが訪れる四川飯店の2代目・陳 健一氏。片や東京を代表する割烹料理店として知られ、ミシュランから10年連続して星を獲得した新宿割烹中嶋の2代目店主・中嶋貞治氏。ともに2代目として繁盛店を切り盛りしてこられたお2人が語る、先代からの教えや料理人としての矜持、そして繁盛店に欠かせないものとは──。

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同じ境遇の2代目

中嶋 陳さんとは40代からの付き合いだから、初めて会ってからもう20年近く経ちますね。

 そんなに経つなんて意識は全然ないなぁ。

中嶋 2年前に亡くなった料理評論家の岸朝子さんが何かの本の取材の時に、「あなたと同じ世代で中華の2代目がいるのよ」って言われたのが、そもそものきっかけで、実際にお会いしてみたらお互い同じような境遇だった。

 おまけに歳まで一緒。ただ、学年で言うと僕のほうが1つ上だからお兄ちゃんなんだけど、最初に会った時は中嶋さんのほうが先輩だと思っていました。
でも、ある時気がついたのね、俺のほうがちょっと先輩じゃないかって(笑)。
中嶋さんは昔から自然体で、全然飾らないでしょう。そこがいいんだよ。日本料理と中華料理でジャンルは違うけど、お互いの店にもよく行くし、とにかくずっといい間柄ですよ。

中嶋 お互いの店だけじゃなくて、他の店にも一緒に食べに行く。高級なものも食べるけど、大衆的なものでも全く抵抗がない。

 そう言えば、ゴルフの帰りによく寄る中華料理の店で、一緒に料理をつくったこともあったね。

中嶋 そうそう。ちょうど田植えの時期で、親父が田んぼに出ちゃってて鍋を振る人がいないものだから、自分たちでつくろうってことになって。

 僕は麻婆豆腐と回鍋肉をつくって、中嶋さんは冷蔵庫に入っていた海老とナスで天ぷらを揚げ始めた(笑)。

中嶋 あれは楽しかったな。自分たちでつくったけど、ちゃんとお金だって払ったし。

 普通はそんなことしないんだけど、中嶋さんとならできるのは、それだけ気が合うってこと。それに車のナンバーまで全く一緒っていうのもすごいよね。

四川飯店オーナーシェフ

陳 建一

ちん・けんいち

昭和31年東京都生まれ。玉川大学文学部英文科卒業後、父・陳建民氏が経営する赤坂四川飯店で修業を始める。平成2年四川飯店グループ社長に就任。テレビ番組「料理の鉄人」の中華の達人として数々の名勝負を繰り広げる。20年に「現代の名工」を受賞。

中華料理の神様 陳建民

中嶋 陳さんとは共通点がたくさんあるけど、それ以上に一緒にいることですごく刺激になった。お互い2代目として店を切り盛りする上で、いろんな重圧も乗り越えてきましたからね。特に陳さんの場合は、陳建民という中華料理の神様とまで言われた方が父親だったから。

 親父は本当にすごい存在でした。だって裸一貫で中国から日本に来て、店をつくって、弟子もとって、テレビにも出て、すべてがパイオニア的な存在ですよ。
例えば麻婆豆腐なんて親父が来るまで、日本にはなかったし、担担麺もそう。ザーサイにエビチリ、回鍋肉なんかも全部親父ですよ、日本に持ち込んだのは。しかも、いまは中華料理の店に行けば、そういったものはどの店でも食べられるんだから、それだけ日本人に愛されたわけでしょう。とにかく、すごい親父ですよ。
親父が日本に来た頃は中国の調味料なんてまだなかったから、豆板醤にしても、日本の食材だけで全部自分でつくっていた。それに親父は日本人の口に合うように、味も少し変えたの。
例えば、本場の四川麻婆豆腐は口が曲がるくらい辛いから、そのままだと日本人の味覚にはなかなか合わないでしょ。親父は本場の味にこだわるよりも、日本人が喜ぶ料理をつくろうとした。その土地で生活する人の味覚を素早く察知して、絶妙な匙加減でその土地に合う料理をつくる。それがよい料理人だというのが親父の考えだった。

中嶋 非常に柔軟な姿勢ですね。

 親父が言ってましたよ、「料理人、腕だけでなく、料理アタマを使うことが大事ね」って。

中嶋 ちなみに陳さんは料理人になることに迷いはなかった?

 僕は何の迷いもなく、料理人になろうと思った。なんせ僕は小さい時から食べるのが好きだったから。それに親父が調理場で料理をつくるシーンをずっと見ていたでしょ。とにかく格好よかったから、僕の憧れだった。それで大学を卒業してすぐ、親父の店に入って修業を始めたの。

中嶋 お父さんはずいぶん厳しい方だったようで。

 厨房では弟子たちに対して厳しかったけど、僕に対してはめちゃくちゃ甘かった(笑)。

中嶋 そんなに(笑)。

 もう大変なもんですよ。こっちが気を遣うくらい。例えば、ある日当然、調理場のポジションがポンと上がってる。本当なら最初は洗い場から始まって、一つずつ経験を積ませていくシステムなのに、早く僕に料理を覚えさせたいものだからいきなり上げる。
料理長はうちの親父の手前、「そんな甘い考えじゃダメですよ」なんてこと、畏れ多くて絶対に言えない。しょうがないから家に帰ると、僕が親父に向かって言うの。「一つずつポジションを経験していかないと、後で困るのは俺だからね。ダメだよ、そんなことしちゃ」って。

中嶋 それじゃどっちが親だか分からない(笑)。

 ただ、料理に関しては余計な説明は一切なくて、見て覚えろと。理論的な人ではなくて、感覚の人だったから、鍋の振り方とか、食材を入れる順番やタイミングなんかは見て盗むしかない。
だからいつも必死で親父の手元を見つめてた。自ずとそういう勉強の仕方をせざるを得なかったというのがあったかな。

中嶋 料理の世界は、感性ですよね、やっぱり。

 いくらレシピどおりにつくったからって、それだけで親父の味になるわけじゃない。

中嶋 ならないならない。どれだけレシピに沿って忠実につくったとしても、調理人が違えば違う味になっちゃう。

 じゃあ、どうすればうまい料理がつくれるのか。うちの親父が大事にしていたのは、とにかく目の前の料理を一所懸命にやる、それだけだった。「自分がおいしいと思うもの、気持ちを込めてつくりなさい。そうすればお客さんも必ずおいしいと思う」って。
でもその「気持ちを込めて」っていうのは口で言うのは簡単だけど、実際に毎日やるのは本当に大変。それをどこまで本気でできるか。だって人間なんだから、時には気持ちが乗らない日だって当然あるんだからさ。
親父はよく若い料理人に「あなた、彼女つくれ、いま」って言ってたけど、要は自分にとって大事な人に料理をつくるつもりで毎回やりなさいってこと。料理は技術的なことも大事だけど、一番大事なのは心の問題なんだよね。

新宿割烹 中嶋2代目店主

中嶋貞治

なかじま・さだはる

昭和31年東京都生まれ。祖父は北大路魯山人主宰の「星岡茶寮」初代料理長。京都で修業後、父・貞三氏の跡を継ぎ55年に「新宿割烹 中嶋」二代目店主となる。受賞歴は「江戸の名工」ほか多数。平成21年に設立された「超人シェフ倶楽部」で会長を務める。