2021年2月号
特集
自靖自献じせいじけん
  • 社会福祉法人藍前理事長竹ノ内睦子

セピア色の心を
瑠璃るり色に染めて

障害者福祉の道に生きる

東京・世田谷にある「社会福祉法人 藍」は、藍染製品の制作・販売やフレンチレストラン、グループホームなどの運営を通じ、障碍者雇用と自立のために力を尽くしている。その前身である「藍工房」を、1983年に六畳一間の木造アパートで立ち上げたのが竹ノ内睦子さんだ。誰もが持てる能力を発揮して働ける幸せな社会、平和な世の中の実現に80歳になるいまなお情熱を傾けている竹内さんに、波乱に満ちた人生と、貫いてきた信念を語っていただいた。

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自分がいなければ幸せになれたのに

障害者の方も健常者と同じように働き、自立できる社会を実現したい―その思いから1983年に立ち上げたのが、藍染あいぞめ製品の制作・販売を通じて障害者の自立を支援する「藍工房」(現・社会福祉法人 藍)です。以来、私はこれまで40年近く障害者福祉、障害者の〝夢〟を実現するために情熱を傾けてきたのですが、その活動のバックボーンには、私自身の生い立ちや闘病経験がありました。

1941年12月、私は太平洋戦争の始まりと共に、9人兄妹の末っ子として鹿児島に生を受けました。母は奄美大島あまみおおしま織元おりもと(大島紬)の娘で、教育畑の家系だった父は校長先生をしていました。

しかし私が生後6か月の時に転機が訪れます。義勇団の教え子たちを励まそうと満洲に出張した父が交通事故で頭を打ち、そのまま廃人になってしまったのです。

父の看病のため子供たちを残して満洲に渡った母も、後に看護疲れで亡くなりました。そうして一家は没落し、私たちは兄妹だけで戦中・戦後を生きていかなくてはならなくなりました。ですから私には両親の記憶がないのです。

幼かった私とすぐ上の兄は、それぞれ年の離れた兄妹に引き取られて育てられました。私の母親代わりになってくれたのは、20歳の長姉ちょうしです。当時、長姉には好きな男性がいましたが、私の養育費のために賃金の高かった福岡の炭鉱町に泣く泣くとつぎました。

長姉は炭鉱の町で私を一所懸命に育ててくれました。でも、私には「自分さえいなければ、お姉ちゃんは幸せになれたのに……」という罪悪感が常にありました。

中学生になる頃、突然私は京都にいた三兄に引き取られ、ある女子大の付属校に通うことになりました。おそらく「炭鉱の町にいてはこの子の教育によくない」という判断だったのだと思います。

その三兄の元には、幼くして別れたすぐ上の兄も一緒に暮らしていたのですが、彼には知的障害がありました。何となくうわさには聞いていたものの、実際に障害を持つ兄に対面した時には、やはり大きなショックを受けました。

三兄の家族からすれば、障害のある兄に加え中学生の私までが居候となり、さぞ負担だったことでしょう。長姉だけでなく三兄まで犠牲にするのかという罪悪感、障害を持った上の兄を認めたくないという複雑な思い、そして、自分はこのまま何不自由なく高校に通い大学まで行ったら、環境に甘えた鼻持ちならない人間になってしまうのではないかという葛藤。

そのつらさ苦しさに耐えられなくなった時、三兄の元を離れ自立することを決めました。三兄の反対を振り切り、自分の意志で付属高校を退学し、宿舎のある大阪の定時制高校に入り直したのです。

そうして働きながら勉強を続けていたある日のこと。驚いたことに、どこでどう調べ、どうやって辿たどり着いたのか、障害のある兄が宿舎の前にぽつんと立っていたのです。すぐに京都に帰らせようとしましたが、居候いそうろうの身が息苦しくて私を頼ってきたのかもしれないと思うと、そのまま送り返すことはできませんでした。

とはいえ、宿舎で一緒に暮らすことはできず、私は仕方なく定時制高校を運営する宗教法人の牧師さんを訪ねて事情を説明し、「生活費は自分が払いますから」と、兄を住まわせてもらったのです。

学校での勉強、学費と生活費のための仕事、上の兄の世話―同世代の子が経験するような青春は私にはまったくありませんでした。

高校を卒業してからも、折に触れて兄の面倒を見ました。最終的には、家も仕事(ゴミ収集の助手)も結婚も世話してあげ、兄は50歳で亡くなるまで幸せに暮らしました。障害のある兄との生活が、後に障害者福祉にたずさわる私の財産・原点となったと言えます。

社会福祉法人藍前理事長

竹ノ内睦子

たけのうち・むつこ

昭和16年鹿児島県生まれ。37年PL学園高等学校卒業。58年6月「藍工房」設立。