2026年11月号
特集
夢なき者に
成功なし
対談
  • 「あら輝」店主荒木水都弘
  • 「大工町鮨人」店主木村泉美

一念を抱き
続ければ
夢は実現する

「日本一予約の取れない鮨店」として名高い東京赤坂の「あら輝」。いまも半年待ちの名店である。店主の荒木水都弘氏を鮨職人の手本として仰ぎ、鮨道を歩き続けるのが金沢の「大工町鮨人」店主・木村泉美氏。木村氏は荒木氏が出演したテレビ番組のビデオを擦り切れるほど視聴、独学で技術を身につけた業界の異端児でもある。共にミシュランを獲得したこの道のプロに、夢を抱いて一道を歩み続けた今日までの歩みを振り返っていただいた。

【写真=左から木村氏、荒木氏】

    この記事は約27分でお読みいただけます

    「あら輝」店主

    荒木水都弘

    あらき・みつひろ

    昭和41年福岡県生まれ。25歳で鮨職人の道へ。「寿司いずみ」で修業し、「きよ田」の二代目親方、新津武昭氏に師事。平成12年世田谷区上野毛で「あら輝」を開店する。22年に銀座に移転した後2年続けて三つ星を獲得。ロンドン出店中の28年二つ星を獲得。29年、30年には欧米の鮨・日本料理で初の三つ星に輝く。令和3年香港で一つ星を獲得。6年活動の場を日本に移し、赤坂に「あら輝」を再オープンする。

    「大工町鮨人」店主

    木村泉美

    きむら・いずみ

    昭和43年東京都生まれ。少年期は富山県で生活し、二十歳で上京。独学で鮨の技術を学び、平成18年富山市内に「鮨し人」をオープン。素材のおいしさを科学的に研究するなど独自の技術を極め、全国から人が集まる人気店となる。令和3年ミシュラン一つ星を獲得。同年からスシローとのコラボでメニューを共同開発。令和7年拠点を富山市から金沢市に移し「大工町鮨人」をオープン。

    出会いが人生を大きく変える

    木村 どうも。荒木さん、ご無ぶ沙さ汰たしています。

    荒木 お久しぶり。

    木村 少しスマートになられたのではないですか。

    荒木 ちょっと痩やせたかな(笑)。

    木村 僕はきょうこの日をずっと心待ちにしてきました。22年前、まさか荒木さんと対談できる日が来るなんて思ってもみませんでしたから、僕にとっては本当に夢のようです。
    荒木さんが出られた『情熱大陸』(TBS系列のドキュメンタリー番組)を見たのが2004年。その数年前、僕は富山で鮨すし店を始めたものの僅わずか1年で閉店し、他の仕事をしながら再起のチャンスを窺うかがっていました。そんなタイミングでこの番組を見て、言葉にできないほどの衝撃を受けたんです。荒木さんの鮨職人としての技術、発する言葉、目線、立ち居振る舞い。そのすべてに圧倒されたのはもちろんですが、それ以上に折れかかっていた心、諦あきらめかけていた心、夢を失いかけていた心に大きな力を与えていただきました。
    それからというもの録画したこのビデオを、おそらく何万回と擦すり切れてしまうほど繰り返し見て、最後は本当に切れてしまいましたけど(笑)、そのくらい励みにしてきました。一方通行でしたが、これまでずっと荒木さんを追いかけてきたんです。

    荒木 ありがとうございます。実際、木村さんはその逆境を乗り越えて、後にミシュランを手にされた。誰かに弟子入りすることもなく、独学でやられたから立派なものですよ。

    木村 いや、畏おそれ多い。荒木さんからしたら僕はまだまだです。

    荒木 木村さんと最初にお会いしたのは、僕が2014年にロンドンに店を出した頃でしたね。

    木村 ええ。よく覚えています。荒木さんが銀座の店を畳んでロンドンに行かれるに当たって送別のパーティーが開かれ、僕も知り合いの方に呼んでいただいたんです。もしかしたら、荒木さんと一緒にお鮨が握れるかもしれないと思って、イワシの新しん香こをひたすら仕込んで富山から六本木のホテルに徹夜で駆けつけました。
    この時、ビデオを擦り切れるくらい見たことをやっとお伝えできたのですが、荒木さんは最高峰の高級時計に譬たとえて「トゥールビヨンを身につける職人ではなく、トゥールビヨンみたいな鮨を握る職人にならなきゃダメだよね」とおっしゃったんです。この言葉も強く胸に刺さりました。それから今日に至るまで折に触れてお導きいただいてきましたが、いずれにしても、荒木さんとの出会いがなかったら、いまの僕はありません。

    荒木 確かに人の生き方は人や出来事との出会いによって変わっていきますね。僕自身、生なり業わいとして鮨をずっと握ってきたけれども、暗中模索の毎日でも自分の中に変化を起こしながら新しいステップに挑んできました。木村さんとお会いしたタイミングがちょうどロンドンでの開業だったんです。そういう僕自身の変化が触しょく媒ばいとなって、木村さんに何か変化のきっかけが与えられたとしたら嬉しいですね。
    だけど、それは僕ではなく木村さん自身が呼び寄せた運であり、人生の岐路とはそういうものなのでしょうね。幸いなことに僕たち鮨職人は自分の思いや願いを魚というものを通して具現化することができる。僕と会った頃、まだ試行錯誤を続けていた木村さんが鮨職人としての思いをずっと抱き続けられたことが後の成功に繋つながっていったと思うんです。

    木村 何よりのお言葉です。まだまだ道は遠いですが、歩んでいる方向は間違ってはいない。そのことを再認識させていただきました。

    目に見えないものが未来を決める

    木村 荒木さんはロンドンや香港で開業された後、2024年に日本に帰って東京・赤坂で「あら輝き」を再開業されました。あれから2年ですね。

    荒木 はい。僕はいま人生の総括の時期だと思っています。と同時に新たなチャレンジの時期でもあると。
    というのは、「世界で勝負したい」と2014年に日本を出てロンドンに、2017年に香港に進出し、ありがたいことに両国でもミシュランを獲得できました。だけど、日本に帰ってくるまでの10年間、日本では志こころざしを持った若い鮨職人さんが成長し、それぞれに鮨の世界をつくり上げていた。僕はある意味、新しん参ざん者ものなわけで、限られたパイの中で果たして生き残っていけるのかという闘いの毎日がいまも続いているんです。
    ただ、僕にとっての日常はそういう連続性の上にあるとしても、お越しいただくお客様にとってはそうじゃないわけですよ。一いち期ご一いち会えなんですね。お客様の気持ちにいかに自分の心を投影していくか。それこそ鮨職人としての醍だい醐ご味みであり、素晴らしい仕事だなとつくづく思います。鮨が天職と思えるようになったのは、本当にここ数年のことですね。

    木村 お話を伺いながら思ったのは、荒木さん、ずっと変わらないですね。仕事に対する姿勢が若い頃から一貫している。
    僕はというと、昨年(2025年)、富山から金沢に店を移してから、驚くほどお客様の数が減りました。富山の店はかなり繁盛していて、僕自身、金沢でも当然やっていけると何か勘違いしていたところがあったのではないかと、自分に問いかけているところなんです。
    でも、厳しい状況に立たされると、僕は「頑張るぞ」と心に火が点つくんですね。あるお客様にいただいた「魚を目利きするのではなく、魚に選ばれる職人になりなさい」という言葉があって、荒木さんがおっしゃった一期一会と同じように、僕の目の前に来てくれた魚との出合いを最高のものだと受け止めて精いっぱい仕立てる。そういう鮨職人としての基本にいま一度、立ち返っていこうと気持ちを新たにしています。

    荒木 とても大事なことですね。

    木村 金沢に来る前、いろいろな人から「全国からお客様が集まる人気店なのに、なぜ富山の店を残さないの?」と聞かれました。でも僕は自分の生き方として、金沢という新しい舞台でゼロから勝負がしたかった。荒木さんからは以前、「未み踏とう」という言葉をサインしていただいたことがあります。この言葉、いつも大切にしているんですけど、金沢での出店は僕自身がまだ踏み込んだことのない世界へのチャレンジでした。
    厳しい闘いを続けていると、自分の鮨をもう握れなくなるんじゃないかという思いに駆られることがあります。しかし、そういう不安を抱きながらも「俺にはやっぱり鮨しかない」と思える瞬間があり、その確信が僕を後押ししてくれるんです。

    荒木 木村さんはいま新たな壁にぶち当たっていらっしゃるそうだけど、壁に直面して一番やっちゃいけないのは傍観していたり行動できなかったりすることなんです。そういう時は、木村さんがいまおっしゃったようにやはり原点を見つめるしかない。
    その原点が何かといったら、本当においしい魚を仕入れ、自分が学んできた技術をすべて注ぎ込んで、きょう来られたお客様が1人だろうが10人だろうが、どれだけ楽しませることができるか、また予約を取りたいと思っていただけるか。そこまでお客様の心を導くこと。それしかないんですよ。僕らがやれることって。
    その繰り返しの中で、今度は人が人を呼んでくる。ここで大事なのは自分の心に嘘偽りなくやっているかということですよね。結局、目に見えるものより目に見えないもののほうが、1年後、10年後を決める。だけど、いまはそれが分からないんです。

    一期一会の思いで鮨を握り続けて、「あら輝」は 「日本一予約の取れない鮨店」と呼ばれるようになった