2025年7月号
特集
一念の微
インタビュー③
  • 全国骨髄バンク推進連絡協議会副会長大谷貴子

骨髄こつずいバンクと共に

粛々と歩み続けて37年

白血病をはじめとする血液の難病に有効な治療法、骨髄移植。これを実施するために不可欠なのが、移植可能な提供者を見出すための骨髄バンクである。日本にまだ骨髄バンクがなかった37年前、自身の罹患を機に骨髄バンクの設立・普及に立ち上がった大谷貴子さん。死を乗り越え、別れを乗り越え、難病に苦しむ多くの人に光をもたらしてきた彼女を突き動かす一念に迫った。

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    死の淵からの生還生きていることに感謝

    ──大谷さんは、日本のこつずいバンク設立・普及の立役者として知られていますね。

    ある方が骨髄バンクをつくった人をAIで調べたら、「大谷貴子」って出てきたそうですけど、それは間違いなんです。決して私一人でつくったわけじゃなくて、たくさんの人と力を合わせてつくってきたんですからね。

    活動を始めたのは1988年でした。民間団体の東海骨髄バンクを立ち上げて、骨髄を提供してくださる方を必死に募った結果、翌年には登録してくださったドナーさんからの骨髄移植が日本で初めて実現し、1991年には日本骨髄バンクが誕生しました。37年経ったいまでは56万人以上の方にご登録いただいていて、実際に骨髄を提供してくださった方は累計で2万9,000人以上にも上ります。これからもっと多くの命を救っていくために、患者さんも、ドナーさんも、安心して骨髄移植に臨んでいただけるバンクでありたいと願って活動しています。

    ──ご自身もかつて白血病にかんなさったそうですね。

    私が白血病を発症したのは1986年、25歳の大学院生の時でした。

    白血病の治療に有効な骨髄移植を受けるためには、自分と白血球の型(HLA)が適合する人から骨髄を提供してもらわなければなりません。ところがHLAが適合する確率は、兄弟姉妹で4人に1人。両親ではさらに低く、他人同士では500~1万人に1人という低確率なんです。

    ですからHLAが適合するドナーさんを見出すために、たくさんの方が登録している骨髄バンクが必要なんですが、当時の日本にはまだありませんでした。ですから、私は卒業名簿を引っ張り出して友人知人に片っ端から電話をかけ、泣きながら助けを求め続けました。それが骨髄バンク設立に向けた運動につながっていったわけです。

    骨髄バンクのことを講演でお話しすると、素晴らしい活動ですねって言われるんですけど、本当はそんな格好いいものじゃないんです。最初は自分のために必死で。とにかく当時を思い返すと、いまでも恐怖で背筋が寒くなります。

    ──そこから骨髄を提供してくださる方は見つかったのですか。

    いいえ。そのうち病状も悪化して命が危うい状態になってしまいました。でも奇跡的に母とHLAが適合したおかげで、骨髄移植を受けることができたんです。

    あれから37年経って社会も大きく変わりました。病名を隠さなくなりましたし、スマホでたくさんの方と情報交換ができますから、病気に対する疑問や不安も随分解消されるようになりました。いま開催中の大阪・関西万博では、先月号の『致知』にも登場された山中伸弥先生が開発されたiPS細胞からつくられた心臓が動くのを見ることもできる。こんなすごい未来も知らずに死んでいた可能性もあったわけで、生きていられることに心から感謝しています。

    全国骨髄バンク推進連絡協議会副会長

    大谷貴子

    おおたに・たかこ

    昭和36年大阪府生まれ。61年千葉大学大学院在学中に慢性骨髄性白血病と診断される。63年母親から骨髄移植を受け退院。平成元年東海骨髄バンク設立。3年財団法人骨髄移植推進財団(日本骨髄バンク)を設立。17年全国骨髄バンク推進連絡協議会会長に就任 。23年より副会長。著書に『白血病からの生還』(リヨン社)『生きてるってシアワセ!』(スターツ出版)など。