2025年7月号
特集
一念の微
対談
  • 元ゴールボール女子日本代表浦田理恵
  • プロテニスプレーヤー姫野ナル

希望の一念を
燃やして生きる

苦難の先に見えたもの

ここに2人の女性がいる。ゴールボール女子日本代表としてパラリンピック4大会に連続出場、世界一を掴んだ浦田理恵さん。離島・種子島でテニスに魅了され、国内外に活躍の場を広げる姫野ナルさん。お二人の共通点は突然、不治の難病に侵されるも、自分の人生を諦めることをよしとせず、前進してこられたことだ。絶望の底で見出した希望の光、いま胸に燃やす一念とは。

    この記事は約27分でお読みいただけます

    九州から世界へと羽ばたいて

    姫野 浦田さん、初めまして。姫野ナルと申します。

    浦田 あっ、姫野さん。浦田理恵と言います。私はお顔が見えないんですけど、入ってこられた時の声や温度感で、素敵な笑顔の方だって分かりますよ。

    姫野 とんでもないです。浦田さんは、熊本のご出身と伺いました。私、鹿児島のたねしまなんです。

    浦田 種子島! 九州っていうだけで、親近感がきますよね。

    姫野 はい。お隣同士なので、とても楽しみにしてきました。普段は福岡にいらっしゃるのですか?

    浦田 そうです。簡単に自己紹介させていただくと、いまはパラリンピック正式種目のゴールボールのチームと、シーズアスリートという組織に所属しています。
    ゴールボールとは姫野さんがまだ小さい2004年に出合って、パラリンピックには東京2020まで4大会連続で出場しました。シーズアスリートは、私たちパラアスリートが現役時代に限らず、仕事と競技を両立して生涯社会で活躍するためのサポートをしてくれる組織で、2022年に競技を引退してからは後輩の育成、そして学校や企業、団体での講演会や競技体験会をさせてもらっています。
    選手時代はプレーで元気を届けようと思っていましたけども、いまは言葉でたくさんの人に元気を届けたい。その思いで年間約70件お話しに伺っています。

    姫野 ああ、70回も。実は私も今年(2025年)、講演依頼をいただくようになりまして、浦田さんはその意味でも大先輩です。きょうはたくさん勉強させていただきます。

    浦田 私のほうこそ。まず「ナル」というお名前が素敵ですよね。

    姫野 よく、芸名ですかと聞かれるんですが、本名です。スペルは「NALU」、ハワイ語で「波」を意味する言葉です。
    サーフィン好きな両親の「人生で打ち寄せる数え切れない波を、自分で選び、あなたらしく乗ってほしい」という願いが込められています。海外の人にも覚えてもらって、世界で活躍できるようにという思いもあったようです。両親に感謝ですね。「ナルちゃん」って呼んでください(笑)。

    浦田 名前は人生で最初にもらうプレゼント。ご両親からの最高の贈り物ですね。私も自分の名前が好きです。理恵って呼んでください。ナルさんは普段、どちらに?

    姫野 私はいま種子島を出て、母の地元・大阪府守口もりぐち市を拠点に、プロテニス選手として世界を目指して戦っています。自分が活躍することで種子島の魅力を世界に伝えたい、地元の皆さんに喜んでもらいたい気持ちが強いんです。

    浦田 地元の皆さんの応援って、すっごく力になりますよね。

    姫野 はい。いつも着るウエアには、プロとして籍を置き、活動を支えていただいている種子島医療センターさん、パッチ契約を結んでいただいた鹿児島銀行さんのロゴが入っています。後でお話しすると思いますが、3年前に難病を発症して、思うようにプレーができない時期があり、ようやく国際大会に挑めるようになりました。
    種子島と鹿児島、地元の名前を背負うことにとても重みを感じていますし、力をもらっています。感謝でいっぱいです。

    元ゴールボール女子日本代表

    浦田理恵

    うらた・りえ

    昭和52年熊本県生まれ。20歳の時「網膜色素変性症」と診断され、徐々に視力を失う。福岡県の視力センターでゴールボールを始め、平成20年北京パラリンピックで五輪初出場、21年シーズアスリートに所属。24年日本代表副主将としてロンドンパラリンピックに出場し、金メダルを獲得。令和3年東京パラリンピックで銅メダルを獲得し、現役を引退。自身初の著書『一歩踏み出す勇気』を6月下旬、致知出版社より発刊予定。

    愛する家族を一番に頼れなかった

    浦田 ナルさんはまだ、20……。

    姫野 24歳になりました。

    浦田 ですよね? お話を聞いているとそうは思えないです。
    私、お顔が見えないので、お声と、お名前と、そこから感じる色でその人を覚えているんです。ナルさんのイメージカラーは、マンダリンオレンジ。話しているとこちらも優しい気持ちになって、元気をもらえる。そんな色です。

    姫野 嬉しい。ラッキーカラーにさせていただきます。
    理恵さんは言葉選びが丁寧で、素敵で、でも芯がとても強い方だと思います。どんな人生を歩んでこられたのか、気になります。

    浦田 私は20歳の時、「もうまくしきへんせいしょう」という進行性の難病を発症しました。熊本の高校を出て、小学校の先生を目指して福岡で勉強していた頃でした。それまでは普通に目が見えていたんです。

    姫野 突然見えなくなったのですか?

    浦田 この病気の進行には個人差があって、私の場合はまず左目の視力が急に落ち始め、3か月で見えなくなってしまいました。次に、右目の視野が外側から少しずつ欠けてきました。見えていたものが見えなくなると、当たり前にできていたことが少しずつできなくなります。これは恐怖でした。
    毎日、鏡を見てメイクをしますよね。そこに映る自分の顔の見える範囲が、日に日に狭まっていくのが分かるんです。「あっ、また見えなくなってる……」って。
    当時は一人暮らしで、身近に友達や先生はいましたけど、普通と違うことにコンプレックスというか、ばかにされたくないって思いがあって、目が見えないことを知られないよう、必死で〝見えるふり〟をしていました。

    姫野 誰にも言えなかった。

    浦田 「見えない」「助けて」って、一番言わなきゃいけない相手は家族だったんです。だけど私に期待して仕送りをしてくれる両親に知られたらどう思われるかなって不安で。何とか卒業した後も、実家には帰れませんでした。
    マメな両親からよく「何しよっとね?」って電話がかかってくるんですね。そのたびに「きょうは言おう、絶対言おう」と思うのに、やっぱり言えない。そんな自分が情けなくて悔しくて、引きこもりになってしまいました。

    姫野 ご家族に打ち明けられない……おつらかったでしょうね。

    浦田 当時は人にどう思われるか、そればかり気にしていました。目が見えなくなって、心の視野まで狭くなっていたんですね。
    そして、引きこもって1年半くらい経った22歳の年末でした。右目もほとんど見えなくなって、もう限界だ、早く楽になりたいと考えた時、また電話がかかってきたんです。
    ふと、死んで親を悲しませるくらいなら、ちゃんと言おうと思って、帰省することを伝えました。子供の頃からいっぱい愛情をかけてもらっていたから、踏み止まれたんだと思います。やっと一歩を踏み出すことができたんです。

    プロテニスプレーヤー

    姫野ナル

    ひめの・なる

    平成13年大阪府生まれ、鹿児島県種子島で育つ。11歳でテニスを始め、中学時代に鹿児島県ジュニアで優勝。相生学院高等学校では全国選抜高校テニス大会で団体2連覇を果たす。31年4月より種子島医療センター広報企画課所属。令和2年1月よりプロ転向、4年に指定難病「下垂体性成長ホルモン分泌亢進症」、翌年「下垂体前葉機能低下症」「成人成長ホルモン分泌不全症」を発症する。大阪を拠点に国内外のツアーを周り、グランドスラムを目指す。