2026年7月号
特集
続けてこそ道
対談
  • デザイナーコシノジュンコ
  • 指揮者小林研一郎

一道を歩み続けて
ひらかれてきた世界

共に半世紀以上、一道を歩み、80代の現在も世界的な活動を続けるデザイナーのコシノジュンコ氏。指揮者の小林研一郎氏、お二人に共通するのは様々な試練や出会いによって自身の人格と芸術を磨き、新たな心境を開拓してきたことである。長年親交を深めてきたお二人に、転機となった出来事を振り返りつつ、続けてきたからこそ見えてきた世界を語り合っていただいた。

    この記事は約25分でお読みいただけます

    デザイナー

    コシノジュンコ

    コシノ ジュンコ

    大阪府生まれ。1960年代より数々のグループサウンズの衣装で活躍。日本万国博覧会にて生活産業館、ペプシコーラ館、タカラ・ビューティリオン館の3パビリオンのユニフォームをデザイン。1978年から22年間、パリコレクションに参加。1985年北京での中国最大のショウをきっかけに、ニューヨーク(メトロポリタン美術館)、ベトナム、キューバ、ロシア、ポーランドなどでファッションの枠を超えた日本文化を発信するショウを開催してきた。DRUM TAOの舞台衣装・琉球海炎祭の花火のデザインも手掛ける。2017年文化功労者。2021年レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ、2025年日本国際博覧会協会シニアアドバイザー、同年文化勲章受章。

    指揮者

    小林研一郎

    こばやし・けんいちろう

    1940年福島県生まれ。東京藝術大学作曲科、指揮科の両科を卒業。74年第1回ブダペスト国際指揮者コンクール第1位、特別賞を受賞。その後、多くの音楽祭に出演する他、ヨーロッパの一流オーケストラを多数指揮。2002年の「プラハの春音楽祭」では、東洋人初のオープニング「わが祖国」を指揮。ハンガリー国立フィル桂冠指揮者、名古屋フィル桂冠指揮者、日本フィル音楽監督、東京藝術大学教授、東京音楽大学客員教授などを歴任。ハンガリー政府よりハンガリー国大十字功労勲章(同国最高位)等を、国内では旭日中綬章、文化庁長官表彰、恩賜賞・日本芸術院賞等を受賞。2025年新宿区名誉区民。

    86歳渾身の指揮

    小林 コシノ先生とは大変懇意にさせていただいていて、きょうは南青山の先生のブティックで対談できるのを楽しみにしてきました。

    コシノ 私こそ光栄です。私は異業種の方々とお話しするのが大好きで、小林先生からいつもたくさんのことを学ばせていただいていますけれど、コバケンさんといえば何と言っても年末にサントリーホールで指揮を執られるベートーヴェン「交響曲第九番」ですよね。長時間、疲れも見せずに全身全霊でタクトを振り続けられる。そのお姿にいつも感動しながら、演奏に聴き入っているんです。

    小林 僕は先生がデザインされた、裏地が左右、黒と赤に分かれたえんふくを着用させていただいています。

    コシノ 先生が大きく動くと裏地の赤がチラチラと見える。これ、とてもれいですよね。お客様も楽しみなんじゃないですか。私も一緒に出演している気持ちです。音楽を聴きに行くというけれど、見に行くという考えも大切だと思うんです。
    私は先生の第九を聞かないと年を越すことができないんですけど、先生はこの演奏会をずっと続けてこられていますね。

    小林 サントリーホールは10月で開館40周年の節目を迎えるのですが、この月に僕の「500回記念コンサート」が開かれるんです。第九の演奏会をこれだけの回数続けてきた指揮者は、日本だけでなく世界中探してもおそらく僕だけでしょう。

    コシノ 大変な数ですね。

    小林 振り返ると、僕が音楽家になろうとした原点がまさに第九なのです。小学3年生の時、古いラジオから流れてきた第九を聴きながら感動し、畳の上に小さな水まりができるのではないかと思うくらい、涙が流れて仕方ありませんでした。
    すぐに「お母さん、五線紙をつくってください」とお願いしましてね。2年くらい夢中でやっていると自分で曲が書けるようになりました。石川啄木たくぼくの「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の歌に曲を付けたのですが、いまでも歌えますよ。

    コシノ 小学3年生の時の感動の涙が、今日までずーっと続いているのですね。

    小林 おっしゃる通りです。それが1950年ですから、76年もの歳月が流れました。これまでベートーヴェンの背中ばかりひたむきに追い続けてきましたが、まだまだはるか遠い存在です。年齢的にも86歳になって、普段の生活はすたすたと歩くことすらおぼつかなくなりました。
    それに比べるとコシノ先生はとても若々しい。体がよく動き、お声もすごく綺麗ですしね。

    コシノ そう思っていただけるとしたら、一つにはコーラスやゴルフを続けてきたからかもしれません。それに、最近特に熱中しているのが絵なんです。時間があれば、いつも絵ばかり描いている。

    小林 ああ、絵ですか。コシノ先生はもともと画家志望でいらっしゃって絵の才能も素晴らしいですからね。それにしても先生の好奇心の旺盛さにはいつも驚かされてばかりです。

    コシノ 何事も徹底的に追究したくなるんですね。もちろん、好きなもの、興味あるものだけなのですが、絵なんか1枚求められたら10枚描いちゃう。止まらなくなるんです(笑)。10月にはパリの日動画廊から声が掛かって個展を開く予定になっています。

    小林 好きなことだったら、惜しまずにすべての力を注ぎきる。先生と僕は本当によく似ていますね。

    76年間、ベートーヴェンの背中ばかりひたむきに追い続けてきましたが、まだまだ遥か遠い存在です──小林研一郎

    与うるは受くるより幸いなり

    小林 10歳の時のベートーヴェンとの出会いについてお話ししましたけれども、音楽に関心を示したのは少しさかのぼって4歳の頃、ちょうど戦争の最中でした。
    B29が飛び去った後、高校の体育教師だった父がピアノで『月の沙漠』を演奏してくれたのです。途中まで単純な演奏だったのが、クライマックスでアルペジオ(分散和音)に変わったのです。まるで天からの声のようでした。音楽の美しさとあこがれが体の中で動き始めたのは、その時からかもしれません。
    B29が上空を飛ぶと、けたたましいサイレンが鳴り、父は僕を肩車してぼうくうごうに逃げ込みます。美しい音楽と戦争体験。この光と闇が僕を生かしてくれたように思います。生きることに対する執着と、目標を持って生きることの大切さをそこから学びました。
    コシノ先生は戦争をご存じですか?

    コシノ もちろんですよ。父が31歳で戦死しましたからね。そこから母は私たち3人姉妹を女手一つで育て上げてくれました。未亡人になった人の多くが再婚を選択する中で、母は独りで生きる道を選び、岸和田のコシノ洋装店を切り盛りしながら毎日夜中の2時、3時まで必死になって仕事をしていたことをよく覚えています。
    でも、周りがそういう環境だから、自分の家だけが犠牲になったという思いはなかったですね。

    小林 実は僕、コシノ先生の赤ちゃんの時を知っているんです。

    コシノ えっ?

    小林 コシノ先生ご一家をモデルにしたNHKの朝ドラ『カーネーション』が大好きで、いつも見ていましたから(笑)。連ドラが放映された2011~2012年、僕はヨーロッパにいることが多かったのですが、それでもこの朝ドラは最高の出来映えで、とても楽しみでした。コシノ先生の子供の頃の負けん気の強さはいまとちっとも変わらない(笑)。

    コシノ この朝ドラについては面白い話がありましてね。私の母には昔からお茶漬けを食べながら朝ドラを見る習慣がありました。ある時、NHKの集金のお兄ちゃんが家にやってきて、母がその人に言うには「あんた、NHKの人やろう? この朝ドラ、私も出られへんか」と(笑)。集金のお兄ちゃんにそんなことを言うて何になるの、と周囲に笑われていましたが、10年ほど経って本当に実現しましたからね。
    だから、相手が誰であろうと口に出して言っていたら、本当にそうなるのだと思います。ただ、『カーネーション』が放映された時、母はもうこの世にいなくて見せてあげられなかったのが残念でしたけど。

    小林 実際のお母様はどういう方でいらっしゃいましたか。

    コシノ 母はお祖父さんがやっていた呉服店を継ぎ、洋装店に無理矢理切り替えたんです。まだ日本に洋装店が少ない頃ですから、いわばハシリですね。着物地を洋服に仕立てたり物珍しいこともあって、とても人気を集めていました。うちは父が亡くなって女性ばかりでしょ? その分、母は男親になったつもりで私たち3姉妹を厳しく育ててくれましたね。
    私たち姉妹が小さい頃、母がこんな話をよくしてくれました
    「水の上に浮き輪が浮かんでいたら、一所懸命に水をいても、その浮き輪は逃げていくだけや。無理に取りにいかずじっとしていたら、浮き輪はいつかこっちにやってくる。それはお金や人も同じや。自分の得ばかり考えていたら、なにも集まってけえへん。まずは無償の心を持つことや」
    その頃は理解できませんでしたが、社会経験を積むにつれ、その意味が染み入るように分かってきました。「与うるは受くるより幸いなり」。『聖書』のこの言葉はいまも大切な人生の指針です。

    コシノ氏が生まれ育った大阪・岸和田のコシノ洋装店