2022年6月号
特集
伝承する
インタビュー②
  • 十五代 沈 壽官ちん・じゅかん

420年の思いを
伝承して生きる

薩摩焼宗家・沈壽官窯。その歴史は実に424年前、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時代にまで遡る。この地に連れられてきた朝鮮陶工が辛苦を乗り越え受け継いだ名品は、現在国内外で高い評価を得ている。先人はこの精巧な技術と民族の歴史をいかに伝承してきたのか。十五代沈 壽官氏に、ご自身の歩みを交えてお話しいただいた。

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420年続く伝統技術を受け継いで

——作品を拝見しましたが、細部にわたり技巧が凝らされていてとても感動しました。そのルーツは400年以上も前になるそうですね。

いまから424年前の1598(慶長3)年、豊臣秀吉の2度目の朝鮮出兵の帰国の際に連行された朝鮮陶工の中に、初代・ちん当吉がいました。以来、島津藩ののもとに高度な技術を確立させ、島津藩の調度品や贈答品として発展してきました。
日本には有田焼や萩焼など地名がつく焼物が多くありますが、ルーツはちょうはくつながります。その中で薩摩焼が独自の発展を遂げたのは土地柄ゆえでしょう。
稲作に不向きで台風が多い上に、桜島の噴火もある薩摩で藩財政を成り立たせるために、島津家は貿易に力を入れました。その一つとして朝鮮人技術者たちに居住区を与えて手厚く保護する代わりに、苗字や習俗、言語を守ることを命じました。その中で私たちの先祖は長い年月祖国をしのび、技術を生きるかてとしてきたのです。

——望郷の念を抱きながら、技術を伝承し続けてこられたのですね。

そして幕末に鬼才・十二代沈じゅかんが登場します。その活躍は沈家、そして薩摩焼の発展の一翼を担いました。1867年のパリ万博に薩摩焼が出品されると、初めて白く美しい陶器を目にしたヨーロッパの人々の間でサツマウェアーはジャポニズムの代表として大絶賛されました。
廃藩置県後、十二代は元薩摩藩重臣によって経営されていた薩摩陶器会社の工場長を務めていました。しかし、工場が経営難に苦しみ65名の職人を解雇する事態に陥ると、工長の十二代は自ら辞表を出し借金をして新工場を立ち上げ、その65名全員を受け入れました。彼らと運命を共にしたのです。そのかまが現在の沈壽官窯です。
十二代が亡くなった時、後継ぎの十三代は17歳でした。父親への厚いの情から、十三代が初めて十二代の名「壽官」を襲名し、以来、父、私と続いています。

十五代

沈 壽官

ちん・じゅかん

昭和34年鹿児島県生まれ。58年早稲田大学卒業後、京都での修業を終え、63年イタリアに渡り、国立美術陶芸学校卒業。平成2年大韓民国の工場でキムチ甕づくりを学ぶ。11年沈家初の生前襲名、十五代に。12年大韓民国明知大学客員教授、27年日韓国交正常化50周年記念十五代沈壽官展開催。令和3年駐鹿児島大韓民国名誉総理事に任命される(十四代に続く親子2代での就任)。