2022年6月号
特集
伝承する
インタビュー①
  • 遠友再興塾代表山﨑健作

先人たちの
生き方を語り継ぐ

札幌市在住の山﨑健作さんは、94歳の現在も自身の戦争体験や平和の尊さを若い世代に伝えている。幼き日、キリスト者・新渡戸稲造が創設した遠友夜学校で人生の基礎を育んだと語る山﨑さんは、戦争や平和をどのように捉えて後世に伝えてこられたのだろうか。

この記事は約11分でお読みいただけます

自らの人格を築いた遠友夜学校

——山﨑さんは94歳のいまも戦争体験や平和の大切さについて語り継がれているそうですね。

さすがに最近は耳も遠くなりましたので、皆様の前でお話しする機会は減りましたが、近く自叙伝を出す予定でいます。戦争とはどういうものだったのか、そういう中で私はなぜ特攻要員となり、戦後の激動期をどのように生きてきたのかを詳細にお伝えさせていただきたいと思います。
もう一つ、私がいま力を入れているのが、札幌農学校(現・北海道大学)の教授だった新渡戸稲造にとべいなぞう博士夫妻が、明治27(1894)年に私費を投じて設立した遠友夜学校えんゆうやがっこうこころざしを伝える活動です。昭和19(1944)年の閉校まで、約3,800人がここで学びました。夜学校は札幌市中央区南四条東3丁目にある私のこの自宅からわずか100メートルほどの場所にあり、私も12歳の頃、半年間だけでしたが通ったことがあるんです。

——どのような教育が行われていたのですか。

私が育った昭和初期は家庭の事情で進学や登校がままならない人たちがたくさんおりました。遠友夜学校はそういう老若男女のためにつくられた無償・無試験の学校です。私の家も貧しかったものだから、母親が夜学校で学ぶことを勧めてくれました。
当時としては大変開かれた学校で、北海道大学の学生が教官を務め、私のクラスの級長は25歳。それだけに先生と生徒の垣根は低く、私も幅広い年代の同級生たちと机を並べながら学びました。一緒に登山や海水浴を楽しんだり、大変温かい雰囲気でしたね。
「世のため人のためになる人間を育成する」という教育方針も新渡戸先生のキリスト教精神に基づくものです。虚弱で友達のいなかった私にとっての学校生活は大変充実しており、私はこの夜学校での経験が自分の人生を決めたと思っています。

——ご自身の人生の基礎を、遠友夜学校で培われたのですね。

はい。それで私は87歳の時、遠友再興塾という市民団体を発足させ、地元の経営者の方たちと共に札幌市にお願いして跡地に記念館を建てる働きかけを始めました。乗り越えなければならない壁が厚くてまだまだ先は遠いのですが、私の生きているうちに道筋はつけておきたいと思います。

遠友再興塾代表

山﨑健作

やまざき・けんさく

昭和2年北海道生まれ。15歳で陸軍少年飛行兵となり特攻要員として台湾で終戦を迎える。戦後は家業の鋸の電気溶接の職人、その後サラリーマンとして働く傍ら、「青空こども会」などのボランティア活動に従事。94歳の現在も遠友夜学校を顕彰すると共に戦争の語り部としても活動。