2021年11月号
特集
努力にまさる天才なし
対談
  • (左)オーボンヴュータン オーナーシェフ河田勝彦
  • (右)コート・ドール オーナーシェフ斉須政雄

かくて一流店を築いてきた

一流プロの仕事と人生の流儀

日本洋菓子界の巨匠・河田勝彦氏が切り盛りするフランス菓子屋「オーボンヴュータン」。日本のフランス料理界を牽引してきた斉須政雄氏が腕を振るうフレンチレストラン「コート・ドール」。共に開店から40年、35年の節目を迎えるが、今日を築くまでにお二人が積み重ねてきた努力、仕事に懸ける情熱を余すところなく伺った(写真:コート・ドールの調理場にて。1日に最低4回の掃除がなされ、ステンレスが輝いている)。

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30年前に知り合うも語り合うのは初めて

斉須 ご無沙汰ぶさたしております。きょうはコート・ドールまでお越しいただき、ありがとうございます。河田さんは日本の菓子界における巨匠ですので、いまこうして隣にいるのが恐れ多く、大変緊張しております。

河田 こちらこそ、きょうはよろしくお願いします。修業時代の話などはもう半世紀も前のことですので、私に何か皆さんのお役に立てる話ができるかどうか……。

斉須 以前から河田さんのご著書を読んでいましたが、渡仏時代にシェフに直談判じかだんぱんしたり、野宿しながら自転車でフランスを一人旅したエピソードなどを知って、その度胸や覚悟がどこから来るのか、とても興味を持っていました。僕は河田さんの5年後にフランス料理を学ぶために渡仏しましたが、度胸がなく、そんなこととてもできなかったですから。

河田 恥も何も知らずバカなものでしたから、恥をかいても恥と思わないところがあったのでしょう(笑)。フランスには同じ頃にいましたが、初めてお会いしたのは帰国後でしたね。
斉須さいすさんはフランスにいらした頃から日本の料理界でとても注目されていましたので、1986年にコート・ドールが開店し、まだ1か月くらいの頃にお店にお邪魔させていただきました。代表料理の赤ピーマンのムースのおいしさといい、いまでも忘れられない料理がたくさんあります。

河田氏も感動した「赤ピーマンのムース」はコート・ドールの看板メニューの一つ

斉須 それは嬉しいですね。オープン間もない頃、当店で結婚披露宴をされたお客様からの依頼で、河田さんにクロッカンブッシュ(フランスのウエディングケーキ)をつくりにきていただいたこともありましたね。私たちは全員直立不動で、河田さんが作業されている姿を見入ってしまいました。
というのも、以前テレビ番組で河田さんのお店が取り上げられた際、河田さんが従業員の方に「これじゃ駄目だ!」と激高げっこうしながら高いクオリティーを求めていたのを拝見していたものですから、怖い方だろうと(笑)。実際、河田さんは無駄話を一切はさまず、仕事を全うして帰られました。

河田 そう、その時はあまり話さなかった。それが30年近く前の話で、それ以降も何度か斉須さんのお店を利用させてもらっていますが、互いに口下手なもので、こうして面と向かってお話しするのは初めてですね。
菓子もそうですけど、料理は出たものがすべてです。同じ料理でも、食材や調理、最後の盛り付けに至るまで、つくった方の思いが如実に表れます。斉須さんの料理からはフランスで学ばれたことを独自に消化し、自分の世界観で表現していることがひしひしと伝わってきて、あっという間にとりこになりました。

斉須 それは私も同じです。海外で修業してきた人の中には、それらしく振る舞う人がたくさんいますけども、河田さんのように仕事に対する姿勢や菓子に込めた思いが時代を貫通している方はいらっしゃいませんよ。いまのフランスでは斬新な菓子が主流になりつつあり、河田さんがつくる昔ながらのフランス伝統菓子、骨太で王道な洋菓子をつくれる人がなかなかいないのが現実です。

河田 私は器用なほうではないので、時代の変化や流行に乗った菓子はつくれない。自分が心からおいしいと思った商品のみをつくり続けているだけなんです。

オーボンヴュータン オーナーシェフ

河田勝彦

かわた・かつひこ

昭和19年東京都生まれ。米津風月堂を経て42年渡仏。9年間で12店舗に勤務し、49年「パリ・ヒルトン」のシェフ・ドゥ・パティシエを務める。帰国後、かわた菓子研究所を設立。56年東京都世田谷区に「オーボンヴュータン」開店。平成24年現代の名工に選出される。著書に『すべてはおいしさのために』(自然食通信社)など。

皿洗いが修業のスタート

河田 私たちは共に23歳でフランスに渡り、約10年の修業を経て、帰国後に自分のお店を持ったという共通項があるそうですが、実は、父親が料理好きだった影響で、私も最初は料理人を目指していたんです。

斉須 そうだったのですか。

河田 ほんのわずかの間でしたけどね。料理人として東京丸の内のレストランに就職したのが1964年、前回の東京オリンピックの年なんです。それから選手村のレストランへ配属され、世界各国から集まった数千人の選手たちの料理を準備するという、目が回るほど忙しい日々が始まりました。食器洗浄機替わりと言っても過言ではないほど皿洗いに明け暮れました。
過労により免疫力が落ちていたのだと思いますが、瘭疽ひょうそといって爪先からばい菌が入って指が赤くれ上がる病気にかかり、そのまま会社を辞めてしまいました。

斉須 ああ、そんな挫折からのスタートだったのですか。

河田 しかし、食への思いは一層高まるばかりで、選手村で楽しそうにお菓子をつくっていたパティシエたちの姿を思い出し、菓子職人を目指すようになったのです。
そうして20歳の時に老舗菓子屋・米津風月堂に入りました。月給は2,000円。当時の平均初任給は約1万3,000円でしたから、普通に私の6倍ありました。しかし、自分で決めた道であり、夢中でやってきましたので、つらいと思ったことはなかったですね。

斉須 私が料理の世界にあこがれを抱いたのは高校生の頃で、テレビでホワイトハウスの料理長の特集を見たことがきっかけです。高校卒業後、地元福島から単身上京し、ホテルの厨房で働き始めましたが、河田さんと同じく3年くらいは洗い物ばかりでした。毎日夜の11時頃まで洗い場に立ち続けていたため、当時住んでいた寮の入浴時間に間に合わない。仕方がないので仕事場の電気を消してシンクにお湯を溜め、洗剤で体を洗っていました。

フランスでの修業時代(右から2人目が斉須氏)。12年間で料理人としての基礎を築いた

地方出身だったので、見たことも食べたこともないようなものばかりで、最初のうちは先輩方から集中砲火を浴びても、何に対して怒られているのかも分からず、常にのどがカラカラの状態でした。それでも料理人への情熱は弱まることなく、現状を打破すべく、1973年、23歳の時に渡仏することにしたのです。

コート・ドール オーナーシェフ

斉須政雄

さいす・まさお

昭和25年福島県生まれ。48年渡仏し、12年間、複数の3つ星レストランで働く。56年から勤務する「ランブロワジー」は開店2年目で史上最速のミシュラン2つ星を獲得。61年東京都港区に「コート・ドール」を開店し、料理長に就任。平成4年からはオーナーシェフとして活躍。著書に『調理場という戦場』(幻冬舎文庫)など。