2016年11月号
特集
闘魂
インタビュー②
  • 遺骨収集家国吉 勇

遺骨収集一筋
60年の道を歩み続けて

古人曰く、「10年偉大なり。20年恐るべし。30年歴史なり。50年神の如し」。その50年を優に越し、60年もの間、沖縄の地で戦没者の遺骨・遺品収集に身を捧げてきた国吉 勇氏、77歳。これまでに掘り出した遺骨は約3,800柱、遺品は約13万点に及ぶ。その貴重な60年の歩みを振り返っていただいた。

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沖縄戦の真実を語る「戦争資料館」

──国吉さんはここ沖縄の地で、実に60年もの間、戦没者の方々の遺骨・遺品収集をボランティアで続けてこられたそうですね。

いままでに掘り出した遺骨は約3,800柱、遺品は約13万点に及びます。遺骨は糸満市にある平和祈念公園の国立沖縄戦没者墓苑に納めていて、遺品は自宅兼事務所の一室に「戦争資料館」という部屋をつくり、保管しているんです。
どこかにフルネームが書いてあれば、戦没者名簿を調べて遺族に連絡を取って、お返しするんですけど、分からないものがほとんど。だから、残念ながら返すことができない。

──国吉さんがこれまでに収集された遺品を先ほど見せていただきましたが、戦争の悲惨さが生々しく伝わってくるとともに、部屋の天井から床までぎっしりと埋め尽くされた遺品の数の多さに、驚きを禁じ得ませんでした。
挙げれば切りがないけど、手榴弾、地雷、機関銃、拳銃、銃弾、砲弾、薬莢、鉄兜、防毒面。それから人の骨盤のかけら、のこぎりで切られた痕跡のある上腕骨、お茶碗にくっついた頭蓋骨、歯、米軍の火炎放射器で焼かれた乾パンや米、飯盒、水筒、銃痕でボコボコになった弁当箱のふた、電話の受話器、重油、薬品のビン、注射器、体温計、印鑑、眼鏡、万年筆、懐中時計、定規、硬貨、衣服のボタン、血判状……、もうありとあらゆる遺品がこの戦争資料館にはあります。

──これだけの遺品を一人で集められたのですか。

もちろん一緒にやってくれる人もいるよ。例えば、登山家の野口健、彼は毎年来ていて、今年(2016)も5月に20名くらいのグループで収集しました。あと、ジャーナリストの笹幸恵とかね。

──お二人とも、遺骨収集活動に熱心に取り組んでいることで知られていますね。

他にも数名の人が手伝ってくれるけど、基本的には一人で毎日出掛けていくわけ。のこぎりやらハンマーやらつるはしやら、10キロほどの道具を背負って歩き、道のないジャングルを掻き分けたり、ロープで断崖絶壁をよじ登ったりする。
朝8時半くらいにジャングルや壕に入るでしょう。夢中になってやるもんだから、気がつくと夜になっているなんてこともたびたびありました。
ただ、ものすごく体力を消耗するし、危険を伴う。妻は僕が落盤にあったり怪我をしないか、いつも心配してくれていたけど、2015年の12月21日、67歳で亡くなってね。
その1か月半後に現場に復帰したら、思うように体が動かない。そろそろ潮時かなと思って、2016年の3月で一応引退することに決めました。ただ、いまも時々手伝いに行ったりしているし、修学旅行生をはじめ、ここを訪ねてくる人たちに沖縄戦の真実を伝えているんです。
県の資料館にもこれだけのものはありませんよ。まあ、60年間、自分でもよくやったなと。自分で自分を褒めてあげたいとつくづく思っています。

遺骨収集家

国吉 勇

くによし・いさむ

昭和14年沖縄県生まれ。6歳で沖縄戦を体験し、母親をはじめ5人の家族を亡くす。30年高校2年生の時から遺骨収集を始め、以来、仕事の傍らライフワークとして活動を続ける。掘り出した遺骨は約3,800柱、遺品は約13万点に及ぶ。平成28年3月、体力の低下から現役を引退するも、いまなお自宅の一室にある「戦争資料館」で、来館者や修学旅行生に沖縄戦の真実を伝えている。