2018年12月号
特集
古典力入門
我が人生の古典④
  • 社会医療法人原土井病院病院長小柳左門

日本の心を伝える
『万葉集』の魅力

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防人の歌に心を打たれる

子供の頃から百人一首に親しんでいた私が、初めて『万葉集』を読んだのは高校生の時でした。そこで得た深い感動はいまも忘れることはありません。とりわけ心を打たれたのが防人さきもりの歌です。
 
663年、白村江はくすきのえの戦いに敗れた我が国では、朝鮮半島からの脅威に備えるべく九州北部の防備を固めました。この時に兵士として派遣されたのが東国の若者です。海山を越え、いつ故郷に戻れるか分からない出征の旅についた防人たちと、その帰りを待つ家族との愛や悲しみが、1,300年ほどの時を経て、私の心にそのまま響いてきたのです。
 
防人の歌は『万葉集』の中に全部で98首収められていますが、ここでは代表作を3つ紹介します。古代の方言が生きているのもこれらの短歌の特徴です。

 忘らむて野行のゆき山行き我れど
 我が父母ちちははは忘れせぬかも
(忘れよう、忘れようと思って、野を歩き山を歩き、はるばる来たけれど、私を育ててくれた父母のことはどうしても忘れることができないのだ)

現代のように飛行機や新幹線、車などはありませんから、関東の地から筑紫つくしの国(現在の福岡県)までやってくるのは、はるかな旅路でしょう。自分はこれから戦いに出て死ぬかもしれない。だから父母のことを忘れよう。そう思ってもどうしても忘れられない。もし私がそういう状況に置かれたとしたら、きっと同じ気持ちになるだろうとしみじみ思います。

 韓衣裾からころもすそにとりつき泣く子らを
 置きてぞぬやおもなしにして
(韓衣の裾にとりついて泣くまだ幼い子らを、私は置いてきてしまったことよ。母親もいないのに)

韓衣はとう風の衣服で、防人に支給されたものです。妻を亡くした後に育ててきた子供たちを残して、遠く九州に向かう。もう二度と会えないかもしれない。この子たちはしっかり育っていくだろうか。そんな父親としての切実たる思いがひしひしと伝わってきます。
一方で、防人の歌には力強い決意を述べたものもあります。

 今日よりはかえりみなくて大君おおきみ
 しこ御盾みたてで立つ我は
(きょうから私は振り返ることなく筑紫の国に行こう。力は足らないが、行くからには天皇をお守りする強い盾となるのだ)

出征することへの悲しみや苦しみを持ちながらも、しかし日本の国が危ないとなれば、やはり自分は国のために全力を尽くす。義務感ではなく、使命感に燃えて立ち向かっていく。人生には悲しみも苦しみも乗り越えて、やるべきことに果敢に挑んでいくことが大切な時もあることを、この歌は教えてくれています。
 
大東亜戦争の際、戦地におもむく兵士たちの多くが携行していった本、それが『万葉集』だったそうです。特に防人の歌を通じて、古代から連綿と流れている日本人としての心を感じ、勇気づけられたのではないでしょうか。
 
悲しみや苦しみを抱えて生きていくのも人間であり、それを勇ましく乗り越えていくのもまた人間である。そういう人間の強さも弱さも含めて、心の様相をすべてありのままに歌として表現しているところが、『万葉集』の素晴らしさだと感じます。日本人の心を最も素直に、そして力強く歌い上げている。人生そのものが映し出されている。それが『万葉集』の大きな魅力に他なりません。

社会医療法人原土井病院病院長

小柳左門

こやなぎ・さもん

昭和23年佐賀県生まれ。修猷館高等学校、九州大学医学部卒業。九州大学医学部循環器内科助教授、国立病院機構都城病院院長などを経て、平成25年より社会医療法人原土井病院病院長、26年より「ヒトの教育の会」会長。医学関連以外の著書に『白雲悠々』(陽文社印刷)。共著に『名歌でたどる日本の心』(草思社)『日本の偉人百人』(致知出版社)など。編著に『親子で楽しむ新百人一首』(致知出版社)がある。