2023年4月号
特集
人生の四季をどう生きるか
対談
  • 指揮者小林 研一郎
  • 将棋棋士羽生 善治

一道に生き、
我が情熱は衰えず

「炎のマエストロ」と呼ばれ、間もなく83歳になるいまもタクトを振り続ける世界的指揮者の小林研一郎氏。将棋界において前人未到の7冠や通算1,500勝を達成し、目下、通算タイトル100期をかけて藤井聡太王将との第72期王将戦に挑む羽生善治氏。30年来の知己であるお二人は一つの道を貫く中でどのような人生の四季を味わい、どのような心境に至ったのだろうか。プロとして歩み続けるお二人の仕事観、人生観に学ぶ

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※この対談は2022年12月、都内のホテルにて行われた。

15年続いた全交響曲連続演奏会

羽生 小林先生、お元気そうで何よりです。

小林 羽生先生こそ。僕は先生の長年の大ファンですから、久々にお目にかかれると思うと嬉しくて昨晩はなかなか眠れませんでした(笑)。王将戦前の大変お忙しい時にお会いいただけたことをとても光栄に思っています。

羽生 小林先生も年末はとてもお忙しくされているのではないですか。毎年おお晦日みそかは……。

小林 実はベートーヴェンの交響曲全9曲を1日で演奏する全交響曲連続演奏会を長年続けてきましたが、昨年(2021年)の15回を節目としてやめることにしました。僕も82歳になりますので。

羽生 そうでしたか。年末の演奏会はお昼に始まって年が明ける午前零時前に終わるという長時間の、ある意味でとても苛酷かこくな演奏会ですから、それを15年間も続けられてきたこと自体、素晴らしいことですね。

小林 もちろん、音楽と向き合うのは確かに苦しいことが多いのですが、そういう中で僕の大きな楽しみが将棋なんです。時々羽生先生とメールのやりとりができることが嬉しく、コンサートで海外に行っている時も先生の対戦の結果ばかり気になっています(笑)。

羽生 いつも注目していただいてありがとうございます。

小林 先生とのご縁も古いですよね。30年ほど前、『日本経済新聞』の正月号で対談したのが最初だったと記憶しているのですが。

羽生 実はその前、1990年に成田空港でお会いしているんです。どうして覚えているかというと、私が初めてタイトルを取った翌年の初防衛戦がドイツのフランクフルトであり、そこに向かう途中でしたから。立会人の大内延介のぶゆき先生も一緒にいらしたのですが、大内先生は成田空港で小林先生を偶然見つけて楽しそうに話されていて、その時に小林先生と引き合わせてくださったんです。

小林 ああ、そうでしたね。大内先生は僕の将棋の師匠です。確かあの日、僕はハンガリーの演奏会に行くところでしたが、空港のロビーには羽生先生の対戦相手である谷川浩司先生もいらっしゃったことを思い出しました。

羽生 ええ、ご一緒でした。

小林 谷川先生には20代で初めて名人をお取りになった頃、飛車落ちで一度指させていただいたことがあります。僕は学生の頃から将棋が好きで、アマチュア4段をいただいていますが、大内先生を通して羽生先生や谷川先生など多くの棋士の方とご縁をいただけたことをとても幸せに思っているんです。
羽生先生は暮れの演奏会には毎年のように奥様やお嬢様とお見えくださっていましたね。先生が永世7冠で国民栄誉賞をお取りになった2018年、演奏会の最後にそういうことを言うのはどうかなと迷いながらも思いを抑えきれずに「きょうはこの会場に羽生善治先生がお見えになっています」と言ってしまったこともありました。

羽生 いゃ、あれにはまいりました(笑)。ご紹介いただいて一礼しましたが、会場から一斉に注目を浴びてちょっと恐縮しました。

指揮者

小林 研一郎

こばやし・けんいちろう

昭和15年福島県生まれ。東京藝術大学作曲科、指揮科の両科を卒業。49年第1回ブダペスト国際指揮者コンクール第1位、特別賞を受賞。その後、多くの音楽祭に出演する他、ヨーロッパの一流オーケストラを多数指揮。平成14年の「プラハの春音楽祭」では、東洋人初のオープニング「わが祖国」を指揮。ハンガリー国立フィル桂冠指揮者、名古屋フィル桂冠指揮者、日本フィル音楽監督、東京藝術大学教授、東京音楽大学客員教授などを歴任。ハンガリー政府よりハンガリー国大十字功労勲章(同国最高位)等を、国内では旭日中綬章、文化庁長官表彰、恩賜賞・日本芸術院賞等を受賞。

年間60回の演奏会でタクトを振る

羽生 私がいまもよく覚えているのは2010年の名人就位式で、小林先生が乾杯の音頭を取ってくださった時のことです。先生はこの時、ステージ横に設置されたピアノでベートーヴェン『交響曲第9番』の一節を演奏し、ピアノを弾きながら自作の歌まで披露してくださいました。先生の指揮を見た方はたくさんいらっしゃいますが、ピアノを弾きながら歌われる姿を見た方はまれでしょうし、このサプライズは私にとっても素敵な記念になりました。

小林 嬉しさのあまり、やっちゃったんですけど(笑)。

羽生 その頃、小林先生の古希こきのお祝いに伺ったことがつい最近のような気がしますが、先生は12年経ったいまもその頃と変わらず活動を続けていらっしゃいますね。いつも思うのは、「炎のマエストロ」と呼ばれている先生が、人間的にもとても慕われて尊敬されていらっしゃることなんです。音楽関係の方とお会いすると、そのことがよく伝わってきます。
以前お聞きした時、2年くらい先までコンサートの予定が決まっているとおっしゃっていましたけど、いまもそうなんですか。

小林 80歳過ぎても現役で演奏会をこなしている日本人指揮者は少ないと思いますが、僕もその1人です。若い人がどんどん出てきている中で、いつまでもここにいていいのかと思うことはありますが、年間60回ほどのコンサートのオファーをいただき、ありがたいことです。

羽生 年間に60回ですか。それだけでも大変なのに演奏をするためにはいろいろな準備もありますから、大変なお仕事かと思います。

小林 例えば、ベートーヴェンの『交響曲第9番』は1時間20分くらいなのですが、自分が自分でなくなるような濃密な瞬間、いわゆるゾーンに入ってしまう瞬間が自分の外で起こっていて、最後に指揮棒を振り上げたその沈黙の一瞬に我に戻り、「あ、自分は指揮していたんだ」と自分を取り戻す感覚なのです。

羽生 82歳の小林先生が全身全霊で音楽に向き合われる姿に自分も奮い立つのを感じます。私が思うにはただ一所懸命やっているだけではなく、そこには先生ならではの秘訣ひけつのようなものがあるから続けられてきたのではないかと思うんです。

小林 そうですね。うまく表現できませんが、これまで僕はベートーヴェンという音楽家を追い続けてきましたから、その部分は確かに大きいかと思います。
僕は9歳の時にベートーヴェンの『交響曲第9番』を聴いた時、「こんな曲が人間につくれるのか」と衝撃を受けたんですね。どうしてそんなことを思ったのか、いまも分かりませんが、幼い僕の中で勃発ぼっぱつするエネルギーの感覚ははっきりと覚えています。
それで教員だった母親に「お母さん、僕に五線紙というものをつくってください」とお願いしました。しかし、全然知識もない僕に、どうやって楽譜を書いたらいいか分かるはずはありません。その時、うちの書棚に音楽の本がたくさんあることに気づきました。父は蓄音機やたくさんのレコードも持っていたのです。
「お父さん、勉強を一生懸命にやりますから、ベートーヴェンの『交響曲第9番』のレコードを買ってください」とお願いし、聴くのは1週間に1回という約束で買っていただきました。しかし、それに耐えられずに夜中の3時頃にそっと起き出しては、父に怒られないように内緒で聴いていました。レコードについていた楽譜を窓に射し込む街灯の明かりで見ながら、「こんなふうに書くと、こういう音になるんだ」と感激しながら音を拾ったのが僕の音楽の始まりでしたね。

羽生 お父様は音楽をやることをこころよく思われていなかったのですか。

小林 はい。父は中学校の体育教師でしたが、厳格な人で僕が音楽をやることに徹底して反対しました。隠れて書いていた五線紙を破られたり、足を持って井戸に宙づりにされたりということもありましたが、その真意は父が亡くなった後に初めて分かったんです。
父の告別式で弔辞を読み上げられた方が「君は昔、音楽家を志し……」と話された時の衝撃はいまも忘れられません。父は経済的に恵まれずに音楽の道を断念した経験があったんですね。半端な覚悟ではやっていけないということを幼い僕に教えようとしたのだと思います。
そんな父も、僕が中学2年生の時にNHKの作曲コンクールに応募した作品がラジオで放送されたことをきっかけに、まるで別人のように応援してくれるようになりました。

将棋棋士

羽生 善治

はぶ・よしはる

昭和45年埼玉県生まれ。6歳で将棋を始める。小学6年生で二上達也九段に師事し、奨励会(プロ棋士養成機関)に入会。中学3年生で4段となり、史上3人目の中学生プロ棋士に。平成8年7大タイトルを独占し、史上初の7冠に。30年棋士として初めて国民栄誉賞受賞。令和4年公式戦通算1,500勝達成。通算タイトル獲得数は99期と単独1位。現在、タイトル100期を期して藤井聡太王将との王将戦に挑む。著書に『決断力』(角川書店)『迷いながら、強くなる』(三笠書房)など多数。