2022年2月号
特集
百万の典経てんきょう  日下にっかともしび(とう)
  • カトリック長崎大司教区司祭古巣 馨

愛と祈りと報恩に生きて

古巣 馨氏は、長崎で活動を続けているカトリックの神父。隠れキリシタンの家に生まれ、運命的な出会いから神父への道を歩み出すことになった。古巣氏は神父の道を歩む中で、名もなき多くの人たちと出会い、その生き方を通してキリストの福音の真の意味を知ることになる。忘れ難いいくつかの思い出やそこでの尊い気づきについて語っていただいた。

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隠れキリシタンの家に生まれて

私はカトリック長崎大司教区の神父(司祭)として、これまでたくさんの人たちに出会ってきました。そのほとんどは名もない市井しせいの人たちです。中には世間からあまり相手にしてもらえずつらく悲しい荷を負った人たちもいました。しかし、その人たちの高潔でたくましい生き方に触れる度に、私はいつもそこにイエス・キリストの姿を見、いまも語り続けられる生きた福音ふくいんを耳にしてきました。

ここでは私の67年の人生を辿たどりながら、特に忘れ難いいくつかの出会いをお伝えさせていただきたいと思っています。

長崎県・五島列島に、奈留島なるしまという人口2,300人ほどの小さな島があります。私は昭和29年、隠れキリシタンの伝統が息づくこの島の網元あみもとの家で生をけました。隠れキリシタンは神道しんとう、仏教の祭事、隠れキリシタンの風習をとても忠実に行います。私も小学校6年生までは教会に通うことはなく、そうした風習にどっぷりとかりながら生活していました。

小学校の卒業式を間近に控えたある日の夕方、私は自宅の外にあるかまどまききながら、風呂を沸かしていました。小腹が空いてきたので、隣家りんか軒下のきしたに干してあった大羽イワシをこっそりと失敬して残り火で焼いて食べようとしました。その時、背後から「どれ、イワシは焼けたね?」と男性の声がし、いきなり手が伸びてきたかと思うと、そのイワシを取り上げて食べ始めたのです。食べ終わると、男性は私に話し掛けました。

「君は何年生?」
「6年生です」

てっきり怒られると思いきや、男性は両手を打って「ちょうどよかった。君は神学校に行きなさい」と言うのです。その時は神学校がカトリックの神父になるための学校であることなど知るよしもありません。それどころか、それまで教会など一度も足を運んだことのない子供です。

驚いたことにその男性は、翌日から毎日家を訪ねてきました。「神学校に行きたくない」と固辞する私と、12歳の子を長崎市の学校に行かせることを躊躇ちゅうちょする両親を説得するためです。結局、私たち家族は根負けし、2週間あまりの後、私は親元を離れて神学校に行くことになりました。

この方は平松一夫という神父で、当時島に赴任されたばかりでした。私が長崎市に向かうその日は、ちょうど奈留島と本土を結ぶ汽船の処女航海の日。港には多くの人が集まっていました。平松神父は不安そうにしている私の手を握り、「かおる君、大丈夫だよ。私がずっと祈っているから大丈夫」と約束しました。そして、早速その日、私が神父になるまでお祈りを続けるグループをつくり、毎夕、島のお年寄りたちを集めて共に祈りを捧げてくださるようになったのです。

平松神父が帰天されたのは17年前です。亡くなって1か月ほどした後、遺族の方から「あなたが出した手紙がきりの箱に収められています。受け取られますか」と電話がありました。

神父となるきっかけをつくった平松一夫氏と少年期の古巣氏

もちろん、すぐに伺いましたが、その桐箱を見た時には思わず鳥肌が立ちました。「神父様へ カオルより」と書いた、15円切手が貼られた昭和42年の最初の手紙を一番上に、最後に私が出した手紙まで、そのすべてが古い順番に重ねて収められていたのです。

私たちは「祈っています」という言葉を社交辞令でよく使います。便りの結びにも記します。しかし、平松神父は「祈っているから大丈夫」という12歳の私との約束を、生涯そっと、しかも忠実に果たし続けていたのです。

私が島を離れて55年の月日が流れました。あの時にできた祈りのグループは、いまも毎日欠かさず夕方5時半に集まって祈りを捧げています。それは島を離れて都会に行った子供たちのためでもあるのでしょう。素朴に祈る人たちの姿を思う度に、「私はいままで、どれだけの人と祈りの約束を交わし、それを忠実に果たし続けてきたか」と自らに問うのです。

カトリック長崎大司教区司祭

古巣 馨

ふるす・かおる

昭和29年長崎県生まれ。56年初来日したヨハネ・パウロ2世教皇により司祭叙階。現在、長崎大司教区法務代理、長崎純心大学教授、福岡カトリック神学院講師、列聖列福特別委員会委員、長崎刑務所教誨師などを務める。信徒発見などキリシタン史をテーマとして活動を続ける劇団「さばと座」を主宰。