2022年2月号
特集
百万の典経てんきょう  日下にっかともしび(とう)
  • 翻訳家小坂恵理
「武士の娘」

杉本鉞子の一生

いまを遡ること約100年前。無名の日本人女性が英語で著した自伝的小説が、世界7か国で翻訳される大ベストセラーとなった。旧長岡藩家老の娘・杉本鉞子の『武士の娘』である。この名著の裏には、日米の架け橋となった彼女の波乱と愛に満ちた生涯があった。2016年、同著の全編新訳を担った翻訳家の小坂恵理さんに、そこで見えてきた生き方の知恵をお話しいただいた。

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『武士の娘』新訳への挑戦

1925(大正14)年、アメリカで出版された杉本鉞子えつこさんの自伝的小説『武士の娘(原題:A Daughter of the Samurai)』。その内容はアメリカのみならず世界7か国で翻訳され、人々に大きな感銘を与えました。その名著が翻訳家の大岩美代さんによって日本語に訳されたのが1967年。それから約半世紀が経った2015年、私は親交のあった女性編集者から『武士の娘』の〝新訳〟をしてみないかと依頼を受けたのです。

翻訳家の私にとって、この仕事をお引き受けすることは大きな挑戦でした。既訳のある本の新訳は初めてで、特に『武士の娘』の場合、それがかの司馬遼太郎さんに絶賛された大岩さんの名訳だったからです。それでもやってみようと思ったのは、私自身が鉞子の生き方に大変感銘を受け、ぜひいまの日本人にも知ってほしいと感じたからに他なりません。

厳格な武家の教育を受けて育った鉞子の人生には結婚、渡米、夫との突然の死別など、いつも「変化」が先にやって来ます。しかし鉞子はその変化から逃げず、むしろ積極的に受け入れて、力強く運命を切りひらいていくのです。

原書に忠実に、なおかつ既訳の気品ある雰囲気を損なわないよう、現代の人に読みやすく訳し替えていく作業にはいつもと違う難しさがありました。一方で日本人が書いたとは思えない英文の美しさに度々感動し、4か月ほどで一気に訳し終えることができました。

新訳の出版から6年が経ち、世の中はコロナでガラッと変わりました。私たちはこの変化をどう受け止め、自らの人生を切りひらいていけばよいのか―鉞子の歩みを辿たどると、現代にも通じるヒントが見えてくる気がします。

翻訳家

小坂恵理

こさか・えり

昭和29年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部英米文学科を卒業後、10年にわたりテレビの2か国語ニュースの日英翻訳を担当。その後出版翻訳者となり、約15年で手掛けた作品は『新訳 武士の娘』(PHP研究所)の他多数に上る。