2017年11月号
特集
一剣を持して起つ
インタビュー①
  • 石工左野勝司

「世界の石工いしく
として生きる

国宝高松塚古墳の石室解体やイースター島のモアイ像の修復、アンコール遺跡の復元など世界的な石工として知られる左野勝司氏。中学卒業後、石工の世界に入り、ノミとハンマーで道を切りひらいてきた。見習いから始まり、世界の石工と呼ばれるまでの道程を振り返っていただいた。

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    日本人石工の先駆けとしてヨーロッパへ

    ——いまや世界の石工と仰がれる左野さんですが、この道に入られて60年以上とお聞きしています。

    僕は昭和18年の生まれなんです。親父は石工として和歌山で墓石などをつくっていましたが、終戦後は誰もが食べていくのにやっとの時代でした。石工の仕事も少なく、小学校低学年の頃だったか、僕は両親に向かって「よその子はちゃんとした服を着て、ちゃんとした靴を履いているのに僕には何もない」と言って悲しませたことをいまも悔やんでいます。
    5、6年生になると、学校に行くことに意味を見出せなくなって、おまけに粗末なものばかり食べていたせいか、中学時代には腎臓を悪くして就職しようにもできない体になってしまう。さすがに「このままではいけない」と痛感しましてね。3年生の頃には親の畑仕事などを手伝うようになり、卒業証書をもらえないまま、親父の知り合いの石材店に見習い修業に行くようになりました。

    ——石工への道を踏み出された。

    親方は厳しかったのですが、白い飯が腹いっぱい食べられるのが大きな喜びでした。友人が高校へ大学へと進む姿を見ては、それができない自分はどう歩んだらいいのかと、夜になるといつもそのことを考えました。
    「人に使われる人間ではなくて、人を使う人間になろう」と。そのためには頑張って資金を貯め、自分の店を持たなくてはいけないという結論に至るわけです。

    ——独立を志されたのですね。

    独立しようと思った理由はもう1つあります。棟梁が家に行けば「大工さんの棟梁はん、来てくれはったで」と歓迎されるのに、石工だけは「あ、石工も来よったがな」と言われる。石工は見下げられた職種の1つだということを、思い知らされたんです。子供ながらにこれは悔しかったですね。
    まだ独立前ですが、僕は日本の石工がヨーロッパに行ったという話を聞いたことがありませんでしたから、それなら自分が真っ先に行ってやろうと思いました。往復の旅費だけで80万円ほどかかる時代でしたが、給料は1円も使わず、酒は一滴も飲まずにコツコツとお金を貯めて、19歳の時に一人で日本を飛び出したんです。

    ——人並み以上の石工になりたいと思われたのですね。

    と同時に世界を見てみたいという思いもありましたね。向かったのはフランスのパリで、シャンゼリゼ通りなど石造物の多さには驚きました。ルーブル美術館に行くと、階段の補修工事をやっていて、僕は4時間も5時間も作業に見入っていたんです。
    しばらくすると石屋さんのほうから声を掛けてきて、僕は手真似で「道具を貸してほしい」とお願いしました。コンコンと大理石を割ったら、まぁこれがまっすぐに綺麗に割れてしまいましてね。
    「自分たちより上手く割れるじゃないか」というので、現場監督が「自分の家に泊めてあげるから、しばらくここにいて仕事をしてくれ」と言ってくれました。信じられないような話でしょう(笑)。
    20日ほど働くとたくさんの賃金がいただけましたので、予定にはなかったイタリアに渡り、ポンペイの石の遺跡の発掘の様子を見て回りました。ここでも飛び込んで作業を手伝わせてもらい、日本に帰る途中にはインドにも寄って、タージ・マハルという素晴らしい石造の墓所を見学することができました。

    ——貴重な経験でしたね。

    僕はよく、人間の運というのは自分でも分からないところにあると話すんですが、たまたま大理石が上手く切れたために見ず知らずの現地の人と仲良くなり、自分の進むべき道がひらかれるのですから人生は面白いと思います。

    石工

    左野勝司

    さの・かつじ

    昭和18年和歌山県生まれ。中学卒業後、石工見習いを経て、40年左野石材店を創業。53年飛鳥建設に改組。藤ノ木古墳石棺や高松塚古墳石室など寺院・神社の石造文化財の調査や修理・復元に携わる。海外ではイースター島のモアイ像の修復などにも当たる。平成19年吉川英治文化賞受賞。同年文化庁長官賞受賞。