2021年4月号
特集
稲盛和夫に学ぶ人間学
我が心の稲盛和夫⑤
  • シンガー・ソングライター長渕 剛

誰かのためにと思った時、
自分の限界を超えられる

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出逢いのきっかけは桜島ライブ

どう振り返っても僕の師は母である。少年時代、母がいつも言っていたのが「うそをつくな」「無駄遣いをするな」「分けへだてなく誰とでも仲良くしろ」「人のために生きろ」ということだった。

嘘をついた時は神仏の前に正座させられ、母から厳しいしつけを受け、こう問われた。「心はどこにある」。はっきり答えられない僕に、「どこだか分からないから、自分の心を示すために言葉と行動があるんだ」と説きさとしてくれた。小学校低学年の頃だと記憶している。そういった母の教えをずっと守って生きてきたわけじゃないが、僕の心の中の指針、精神的な根幹になっていることは確かだ。

父は警察官を夢見て柔道を学び心身を鍛え上げ、10代後半で種子島たねがしまから船で本土に出てきて、鹿屋かのや警察署の機動隊に入隊。その後、鹿児島県警のマル暴(刑事部捜査第四課)として組織犯罪の取り締まりを扱っていた。父をはじめ周囲の屈強な男たちは皆それぞれの立場で、町の弱き者たちや恵まれない子供たちの面倒を見て守っている。その後ろ姿に接し、「自分らのしのぎのためじゃなく、誰かのために生きる。使命を背負う。男はこうならなきゃいけない」という想いが肌にみ込んでいった。

そういう時代、環境の中で生きてきたことはよかったなと、いまになるとつくづく思う。同時に、それが稲盛名誉会長との出逢いにつながったのかもしれない。

きっかけは2004年夏の桜島ライブだ。桜島の荒地を開拓してつくった野外会場でオールナイトライブを敢行かんこうし、全国から7万5,000人が集い、50億円の経済効果をもたらした。鹿児島のステージに立つと決めたのは、我が故郷と亡き母への想いからだった。

ミュージシャンになる夢を追いかけ、18歳で故郷を離れて福岡に渡り、大阪を経由して東京に出てきた。都会の洗礼を受けたり、人に裏切られたり、お金のトラブルに巻き込まれたり、いろんなことがあってようやく落ち着き始めた2000年に、母は72歳で天国へと旅立った。

「母ちゃん、見といてくれ」。母の教えにそむいたこともたくさんあったが、母への恩返しと共に望郷の念にも駆られ、体をつくり直して目標を定めて走り出した。その時父は体を悪くし車椅子いす生活を強いられていたので、健在だった頃の父のような頼れる存在、相談できる人が欲しかったんだろう。それで会ってみたいと思ったのが稲盛名誉会長だった。

起業家じゃない僕は、稲盛名誉会長のことをそんな勉強していたわけではなかったが、偉大な経営者として、同郷の先輩として当然知っていたし、周囲の人からよく「お坊さんみたいな人だ」と聞き、かれるものがあった。

シンガー・ソングライター

長渕 剛

ながぶち・つよし

1956年鹿児島県生まれ。78年にシングル「巡恋歌」で本格デビュー。以後、「順子」「乾杯」「とんぼ」「しゃぼん玉」「しあわせになろうよ」など数多くのヒット曲を連発。革新的な作品で熱烈な支持を獲得し、全国各地で記録的な動員数を誇るライブを展開。2011年の東日本大震災後、いち早く復興支援ラジオ番組を立ち上げ、航空自衛隊松島基地で決行した激励ライブは全国を感動の渦に巻き込む。音楽以外にも俳優としてTVドラマや映画に出演する他、芸術家として詩画展を開催するなど、多方面で才能を発揮している(写真/長谷川拓司)。