2019年11月号
特集
語らざれば愁なきに似たり
対談
  • (左)曹洞宗僧侶中野東禅
  • (右)作家青木新門

親鸞と良寛に学ぶ

自身も様々な苦悩や悲しみを抱きつつ、人々の悲しみと静かに向き合っていった仏教者たち。親鸞と良寛はまさにその典型だろう。共に幼少期から悲しみを味わい、それを乗り越えてきた作家の青木新門氏と曹洞宗僧侶の中野東禅氏に、それぞれの人生体験を交えながら、親鸞、良寛の歩みや人間的魅力などを語り合っていただいた。

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光に満ちていた死者たちの顔

中野 いただいたテーマは親鸞しんらん良寛りょうかんですが、いや、これはなかなか大きなテーマだと思います。

青木 そうですね。この二人は仏教者の中でも本物だと思うんです。何しろ生き方にうそというものがない。僕自身、親鸞の念仏の教えを長年学んできましたが、良寛についても強い関心があるものですから、きょうは東禅とうぜん先生のお話を伺えることを楽しみに富山から出てまいりました。

中野 私こそ学ばせていただきたいと思っています。『納棺夫日記』の著者である青木先生のことは早くから存じ上げておりましたが、この本の内容をもとにした映画『おくりびと』はアカデミー賞(第81回アカデミー賞外国語映画賞)に輝いて、一世を風靡ふうびしましたね。

青木 10年ほど前になります。この映画がアカデミー賞を獲ったという理由だけで僕は尊敬されているわけですが(笑)。

中野 青木先生は地元の富山県で長く納棺夫の仕事をし、その中で親鸞の世界に目覚めていかれたのでしたね。

青木 ええ。だから正規だった学問をしたわけでもなければ、師に就いて学んだわけでもありません。僕と親鸞との出会いは、あくまでも葬式の現場なんですね。
富山県は85%の家が浄土真宗ですので、南無阿弥陀仏なむあびだぶつという言葉には小さい頃から親しんできたのですが、納棺夫として多くのご遺体に接する中で、とても柔和な仏さんのような顔をしている方と、そうでない方がいることに気づいたんです。
柔和な顔で亡くなった方のご遺族と話していて分かったのは、死者の多くが生前、死を受容されていることでした。浄土真宗であれば「阿弥陀様が迎えに来てくださった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えて亡くなった方は、とてもいい顔をされている。葬式の場も悲しみの中に和気わきが漂っている。
一方で、玄関に入った瞬間に何かピーンと張り詰めたような雰囲気の家がある。そういう家では、後からやって来た東京のおじさん、おばさんなんかが大声で騒いでいて、必死に介護を続けてきたお嫁さんは台所の隅でひっそりと泣いている。和気の漂う家庭とはまったく違う光景がそこにはありました。

中野 私も僧侶をやっておりますから、青木先生のいまのお話はとてもよく分かります。

青木 僕は人間、生まれたばかりの時は皆、生死一如せいしいちじょを生きてると思っています。生と死の分別というものを知らない。それが、教育を受け知識を貯えてくると、生と死を別々に考えるようになる。さらに年を重ねてスーッと息を引き取る時には再び生と死が一つになる。多くの人が亡くなった時に生まれたばかりの子供のような柔和な顔になるのは、それだと思ったんです。
人間の顔は悲しみがあれば悲しい顔になるし、恋をしていればウキウキした顔になる。それと同じことが死ぬ瞬間にも起こっているんだなと思うようになった頃に出合ったのが親鸞の『教行信証きょうぎょうしんしょう』でした。

中野 浄土真宗では根本聖典とされているものですね。

青木 親鸞は『教行信証』で真実の仏の教えを明らかにしている経典は『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』であると述べています。この経典を説くお釈迦しゃか様の顔や体が喜びに満ち、光に満ち満ちていた。そのことに気づいた弟子の阿難あなんをお釈迦様が大変められたというので、親鸞はこれを真実の教えだと考えたわけです。
お釈迦様のこの時の様子は「光顔巍巍こうげんぎぎ」と表現されています。巍巍とは高くそびえる様を意味しますが、この言葉と、生と死が一つになった死者の柔和な表情とが僕の中で重なったんですね。これは人生の一つの転機でした。親鸞に関する本を一所懸命に読むようになったのはその時からです。

作家

青木新門

あおき・しんもん

昭和12年富山県生まれ。早稲田大学中退後、富山市で飲食店を経営する傍ら文学を志す。48年冠婚葬祭会社(現オークス)に入社。専務取締役などを歴任。平成5年葬式の現場の体験を『納棺夫日記』(文春文庫)として著しベストセラーに。また20年に『納棺夫日記』が原典となった映画『おくりびと』が第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞。親鸞関係の著書に『親鸞探訪』(東本願寺出版)など。

時代背景から見えてくる良寛の人生

中野 良寛と私との出会いということで申し上げれば、18歳で東京の曹洞宗そうとうしゅうの寺にお世話になった頃がそうだと思います。師匠の師匠に当たる中野東英師が坐禅会で時折、良寛さんの話をされていました。ある日、お茶の席で私にこうおっしゃるんです。「おまえ、将来説教師になって新潟に行くようなことがあったとしても、決して良寛さんの話をしちゃいけないよ。新潟県人は皆、全員良寛学者だから」と(笑)。
故郷の新潟では良寛はそんなに有名なのかと、研究者・相馬御風そうまぎょふうさんの本を読んだのが最初です。その後、私も師匠の命で坐禅会を指導するようになり、法話の中で良寛をたびたび取り上げるようになりました。

ある時、坐禅会の会員の間から皆で旅行に行こうという話が持ち上がりましてね、最初はやはり良寛ゆかりの土地がいいというので、新潟県地蔵堂町(現在の分水ぶんすい町)を訪れ、良寛の友人・原田鵲斎しゃくさいの子孫に当たる原田勘平先生にお話を聞いたりしました。
考えてみれば、私も良寛と出会って60年以上になるわけですが、その全体像を知るなどというレベルには到底至りません。ただ、ぼつぼつ資料を集め、それを書物にまとめ上げたりする中で、自分の気持ちが少しずつ進化してきたことは確かでしょうね。一番分かったことと言ったら、良寛が持っている世界を自分はいかに分かっていないか、ということです。

青木 学べば学ぶほど分からなくなる。それは親鸞についても全く同じです。

中野 良寛を知ろうと思ったら、その背景にある越後の文化を知らなくてはいけないわけですが、これがまた分からないんですよ。確かに良寛が書き残したものを読めば、その哲学的な部分、人生観といったことは分かります。しかし、その背景にあるものを知らなくては良寛の本当の姿は見えてきません。
新関にいぜき公子という美術史の研究家が書かれているのですが、良寛が生きていた頃の出雲崎いずもざきは、経済的に見ても利権争いがとても激しい土地だったんですね。というのは、佐渡に送られる罪人は海が荒れれば何日も出雲崎に逗留とうりゅうすることになります。そのために幕府からは多額の迷惑料が出ていて、その利権を巡る争いが絶えなかった。そういう生臭い人間関係の中で良寛の父・以南いなんは、自ら命を絶ってしまう。
良寛が生きた時代的背景を知っていくと、その複雑な厚みにくさびを打ち込むようにして生きてきた良寛の姿がよく見えてきます。

曹洞宗僧侶

中野東禅

なかの・とうぜん

昭和14年静岡県生まれ。駒澤大学大学院修士課程修了。曹洞宗教化研修所修了。同所講師、大正大学講師、武蔵野大学講師、南無の会副総務、京都市竜宝寺住職などを歴任。現在可睡斎僧堂西堂。著書に『良寛 日本人のこころの言葉』(創元社)『「どん底目線」で生きる 良寛詩歌集』(NHK出版)『心が大きくなる坐禅のすすめ』(三笠書房)など多数。