2017年7月号
特集
師と弟子
一人称
  • 東北福祉大学学長大谷哲夫

正師を得ざれば、
学ばざるに如かず

道元禅師の求道の旅路

日本における曹洞宗の祖・道元禅師。その一生は正師・如浄禅師との出会いによって、無限の広がりを見せたと言っても過言ではないだろう。古来、禅者はどれだけの覚悟を持って師を求めてきたのだろうか。道元研究の第一人者・大谷哲夫氏に、道元禅師を中心に躍動する師と弟子の関係を物語っていただいた。

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求道の旅人・道元

お亡くなりになるまで、果てしなき仏道への求道の旅路を歩まれた──。道元禅師の生涯をひと言で表せば、おそらくこう言えるでしょう。

坐禅とは何のためにするかと問えば、大半の方が「悟りを得るためだ」と答えられるのではないでしょうか。

しかし、修行し悟りを開いたからといって、坐禅もそれで終わりかと言えば、決してそうではありません。坐禅とは、川の向こう岸に渡るために使う舟のように、目的を果たせば必要のなくなる道具と同じではないのです。

仏法を究めることとは修行と悟りとを繰り返す、果てしのない道であると南宋で学び、ただひたすらに仏道を歩み続けたのが、道元禅師その人なのです。

道元が生まれたのは正治2(1200)年、父は時の権力者・久我通親、母は藤原氏一族の息女・伊子でした。高貴な家柄に生を享けた道元が13歳にして出家したのは、3歳で父を、8歳にして母を相次いで亡くし、強烈な世の無常を感じたことが引き金になったのです。

その後、異母兄の久我通具のもとで育てられるも、その無常観を拭い切れなかった道元は、周囲の反対を押し切って比叡山の門を叩き、天台座主公円のもとで剃髪、得度し、天台僧としての第一歩を踏み出しました。
修行に入って間もなく、道元は一つの疑問に突き当たります。それは、人間というのは本来皆仏であるという教えがあるにもかかわらず、なぜ苦しんでまで修行をする必要があるのだろうかという、日本仏教に対する極めて基本的な疑問でした。

悩みに悩む道元に助言を与えてくれたのは、道元と同じく村上源氏の出身で、当時有名な学僧・公胤でした。彼は道元の悩みに直接答えることはせず、宋から帰ってきた栄西禅師という方に会ってみよと勧めてくれたのです。

栄西は2度の入宋を経験し、帰国後は京都に建仁寺を開山した後は、鎌倉と京都を拠点として活躍していた臨済宗黄龍派の流れを汲む禅僧でした。

東北福祉大学学長

大谷哲夫

おおたに・てつお

昭和14年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文研東洋哲学専攻修了。駒澤大学大学院博士課程。曹洞宗宗学研究所講師を経て、駒澤大学に奉職。同大学教授、副学長、学長、総長を歴任。平成28年東北福祉大学学長に就任。長泰寺住職。著書に『祖山本 永平広録 考注集成(上・下)』(一穂社)『永平の風 道元の生涯』(文芸社)『日本人のこころの言葉 道元』(創元社)など多数。