2018年8月号
特集
変革する
対談
  • 京セラ元取締役執行役員役員、日本航空元専務執行役員(左)大田嘉仁
  • 日本航空技術協会会長、日本航空元副社長(右)佐藤信博

かくてJALは甦った

2010年、我が国を代表する名門企業・日本航空(JAL)が経営破綻した。負債総額は事業会社として戦後最大の2兆3,000億円超。そのJALを、僅か1年で黒字化、2年半で再上場へと導いたのが、かの稲盛和夫氏である。誰もが不可能と断じた再生は、いかにして成し遂げられたのか。稲盛氏とともに京セラから再生に臨んだ大田嘉仁氏と、整備本部長として現場の指揮に尽力した佐藤信博氏にご対談いただき、変革の要諦を探った。

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本音でぶつかり合った再建事業

大田 佐藤さんとは、ともに日本航空(JAL)の再建で汗を流した仲ですから、こうして改めて対談の機会をいただいてとても嬉しく思います。

佐藤 私も楽しみにしていました。きょうはよろしくお願いします。

大田 稲盛さんとともに京セラからJALへ移った当初は、私も再建に必死なあまり随分乱暴なことも申し上げましたが(笑)、佐藤さんも整備本部長として現場を熟知するお立場から、できないことはできないとハッキリおっしゃった。ああいう時に一番困るのが「はいはい、分かりました」と口先だけで何もしない面従腹背めんじゅうふくはいの人ですが、佐藤さんとは最初からずっと本音でお話ができたのがよかったと私は思っているんです。

佐藤 私も同じ思いです。私どもが一番苦しい時に助けてくださった大田さんのことを、私は戦友だと思っていますから。

大田 そうですよね。まさに戦友ですよね。

佐藤 こう言っては語弊ごへいがあるでしょうけど、いま改めて当時を振り返ってみると、大変ではあったけれども楽しかった。2兆3,000億円を超える負債を抱えて破綻はたんしたJALが、稲盛さんが来られてからガラッと変わりましたし、そこで教わったことは、すぐ次の日に役に立つというくらいに的を射たものばかりでしたからね。
現場の皆さんからは、それまでの私の話はとにかく技術的なものばかりで、何かあればすぐ怒鳴っていたけれども(笑)、稲盛さんの教育を受けるようになってからは整備士っぽくなくなって、話に重みが出てきたと言われました(笑)。

大田 それは佐藤さんが本物のリーダーになられたからですよ。

日本航空技術協会会長、日本航空 元副社長

佐藤信博

さとう・のぶひろ

昭和25年大分県生まれ。44年日本航空入社。羽田整備事業部長、整備本部副本部長などを経て、平成22年2月日本航空執行役員整備本部長、JALエンジニアリング代表取締役社長に就任。24年2月専務執行役員整備本部長、JALエンジニアリング代表取締役社長。26年4月代表取締役副社長(28年3月退任)。29年6月公益社団法人日本航空技術協会代表理事会長に就任。

稲盛氏を突き動かした3つの大義

大田 2009年当時、JALの経営問題は日本の最も大きな課題の1つとして注目を集めていましたね。稲盛さんはいろんな方々から再建のかじ取りをしてほしいという打診を再三受けていたのですが、最初はまったく関心を示しておられませんでした。

佐藤 最初は固辞なさっていたようですね。

大田 けれども会社更生法の適用が決まったにもかかわらず、再建を託せるリーダーがなかなか決まらない中で、次第に気持ちが傾いていかれて、最終的にJALの再建には3つの大義があるということで、会長就任を受諾じゅだくされたわけです。
3つの大義というのは、1つ目が、再建を通じて不振を極めていた日本経済にあかりをともすこと。2つ目は、残された社員の雇用を守ること。そして3つ目は、航空業界に健全な競争環境を維持すること。この3つの大義に照らして、世のため人のために役立つのであれば、引き受けざるを得ないと決断されたわけです。
世間では、稲盛さんがいくら立派な経営者でも、航空サービスの素人に再建できるはずがない。きっと失敗して晩節を汚すだろうといった批判や同情が吹き荒れていました。成功する確率はほぼゼロといわれる中で、稲盛さんはあえて火中の栗を拾われたわけです。

佐藤 ところがその一方で、当事者である私たちJALの人間は、それまで会社の経営状況がほとんど分かっていませんでした。
私は入社して約35年整備畑を歩んできて、当時は執行役員を務めていたんですが、実際に会社の経営が厳しいことを知らされたのは2009年の秋口でした。当時の社長から「来月の給料が払えないかもしれない」と言われた時は、さすがにそれはないんじゃないかと。グループ5万人のこんな大きな会社が、まさかというのが最初の印象でした。

大田 それが社内の大半の方の受け止め方だったのでしょうね。

佐藤 ただ、改めて振り返ってみると、JALは1970年以来、1機200億円以上もするジャンボジェットを100機近くも購入してきました。その上ジャンボは、飛んで行く時は満席でも、戻ってくる時は空席が目立つ状況で、本当にこの会社の経営は成り立っているのかという懸念はずっと持っていました。
ですから、会社が2兆3,000億円を超える赤字を抱えていることが明らかになった時は、この会社をダメにしたのは自分たちだという強い自責の念から、会社を去ることしか頭にありませんでした。稲盛さんが入ってこられるという話を耳にしても、再建できるとは夢にも思いませんでしたね。
それだけに、翌年の2010年2月になって総務担当の役員から「新しいJALで整備部門の担当役員を務めてほしい」と言われた時は本当に驚いて、自分の気持ちを立て直すのに苦労しました。

京セラ元取締役執行役員役員、日本航空元専務執行役員

大田嘉仁

おおた・よしひと

昭和29年鹿児島県生まれ。53年立命館大学卒業後、京セラ入社。平成2年米国ジョージ・ワシントン大学ビジネススクール修了(MBA取得)。秘書室長、取締役執行役員常務などを経て、22年12月日本航空専務執行役員に就任(25年3月退任)。27年12月京セラコミュニケーションシステム代表取締役会長に就任、29年4月顧問(30年3月退任)。現職は、稲盛財団監事、立命館大学評議員、日本産業推進機構特別顧問。