2017年3月号
特集
艱難汝を玉にす
対談
  • 車椅子バスケットボール 男子日本代表アシスタントコーチ京谷和幸
  • ピロレーシング代表長屋宏和

逆境を
乗り越えた先に
見えたもの

突然の事故により車椅子生活を余儀なくされ、サッカーへの道を閉ざされた京谷和幸氏と、F1ドライバーへの夢を絶たれた長屋宏和氏。しかし、ともにその逆境から立ち上がり、京谷氏は車椅子バスケット、長屋氏は車椅子利用者のファッションブランド・ピロレーシングの立ち上げと、新たな世界を切り開いてきた。お2人が語り合う逆境との向き合い方、そして逆境を乗り越えた先に見えたもの──。

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出逢いは一通のメールから始まった

長屋 京谷さんと初めてお会いしたのは、僕が車椅子の方のファッションブランド「ピロレーシング」を立ち上げた10年前になりますね。車椅子バスケットで活躍されていた京谷さんのことをテレビで拝見して、この方にぜひ着ていただきたいと、直接メールをお送りしたのがきっかけでした。
それでお返事をいただき、千葉の浦安駅でお会いして、「こういう服をつくっています。よかったら着ていただけますか」と(笑)。

京谷 そうでしたね。それからズボンを買う時にはいつも連絡するようになって、もう長屋さんのズボン以外ははいてないですから。

長屋 ありがとうございます。

京谷 長屋さんは本当にいろいろなところでご活躍されていて、いつも刺激をもらっていますよ。

長屋 いやいや、僕のほうが刺激をもらっています。2012年に車椅子バスケットの現役を引退されてからは、特に後進の育成に力を入れておられるそうですね。

京谷 ええ。リオパラリンピック前の2015年5月に車椅子バスケット日本代表のアシスタントコーチに就任し、5大会目のパラリンピックは指導者として参加しました。それからはコーチとして継続して指導に当たっています。つい最近まで次の東京パラリンピックに向けた合宿を静岡の焼津でやってきたところなんですよ。
あとは、今年(2017年)23歳以下の世界大会があるので、そちらのほうもヘッドコーチの立場で指導しています。だからいまは日本代表と23歳以下、掛け持ちしてやらせていただいている状況です。

長屋 お忙しい毎日ですね。

京谷 それから、交通事故で車椅子になる前には、私はJリーグのサッカー選手だったので、サッカーの指導者になることも夢の一つとして取り組んできました。それで、一昨年(2015年)日本サッカー協会のB級ライセンスを取得することができまして、大学生くらいまでは指導できるようになったんです。
長屋さんは、やっぱりピロレーシングの活動がメインですか。

長屋 そうですね。ピロレーシングの活動を通じて多くの方に喜んでいただくことが、いま一番力を入れていることです。車椅子で生活する中で、洋服の悩みを抱えている方はたくさんいらっしゃると思うんですよ。車椅子に座り続けていると、ジーンズの硬い縫い目など、ちょっとしたことが床ずれの原因になったりしますから。
そういう負担を少しでも軽減していきたいという思いは、ピロレーシングを立ち上げた当初からずっと持ち続けていますね。

京谷 しかしここまで普及するのは大変だったのではないですか。

長屋 ええ。立ち上げた当時は、車椅子の方のファッションという意識自体が世間にないまっさらな状態でした。なので、最初は自分の気にいったズボンに鋏を入れて一枚布につくり変えたりと、「自分が着たい服を着る」というところからスタートしたんです。そこから少しずつ商品化して、雨の日でも外出できるよう車椅子専用のレインコートなどをつくったりしながら活動を広げてきました。
これから東京パラリンピックもありますので、いまはそこに向けて車椅子の選手の皆様に少しでも負担が掛からない商品を提供できたらと思っているところです。やっぱり、お客様に「これ使ってよかったよ」と喜んでいただけることが何より頑張れるんですね。

車椅子バスケットボール 男子日本代表アシスタントコーチ

京谷和幸

きょうや・かずゆき

昭和46年北海道生まれ。室蘭大谷高校二年の時、サッカー日本ユース代表とバルセロナオリンピックの代表候補に選出。その後、古河電工に入社し、平成3年Jリーグのジェフ市原とプロ契約を結ぶ。5年22歳の時に交通事故で脊椎を損傷し、車椅子生活となる。その後、車椅子バスケットチーム・千葉ホークスに入り、活躍。12年のシドニー、16年のアテネ、20年の北京、24年のロンドンと、四大会連続でパラリンピックに日本代表として出場。北京では日本選手団主将も務める。24年車椅子バスケット現役引退後は、指導者として道を歩む。著書に『車いすバスケで夢を駆けろ』(金の星社)『車椅子バスケのJリーガー』(主婦の友社)などがある。

突如として閉ざされたサッカーへの道

長屋 先ほどお話にもありましたが、京谷さんは車椅子バスケットをされる前は、プロのサッカー選手として活躍されていたんですよね。きょうはせっかくですから京谷さんの人生の歩みをお聞かせくださればと思います。

京谷 はい。私が生まれ育った北海道室蘭市に室蘭大谷高校というサッカー強豪校がありまして、私が小学1年生の時に全国大会で準優勝したんです。その試合をテレビで観たことがサッカーを始める大きなきっかけになりました。
それで小学2年でサッカーを始めたのですが、6年の時にスペインでワールドカップが開催されましてね。その時にドイツ(旧西ドイツ)代表として出場していたリトバルスキーのプレーを見て、自分もそういう舞台でやってみたいなと、プロのサッカー選手になる夢を持つようになったんです。
とはいえ、当時はまだJリーグが発足していなくて、海外に行かなければプロにはなれない時代でした。そこで海外に行くためには多くの人に注目されないとだめだと思い始めまして、自分の中で室蘭大谷への進学が避けては通れないものになっていったんです。

長屋 その頃から、プロへの明確な道筋を描いていたんですね。

京谷 ええ。室蘭大谷には特待生として入ることができ、年生から10番をつけ、レギュラーとしてプレーしました。その翌年には日本ユースとバルセロナオリンピックの代表候補に選ばれていくのですが、ちょうどその頃から、日本でもサッカーのプロ化に向けた動きが本格化しまして、自分の夢が現実味を帯びていきました。
その後、いろいろとスカウトがあったのですが、最終的にサッカーの強豪・古河電工への入社を決め、Jリーグが開幕する前の1991年にプロ契約を結びました。

長屋 まさにサッカー一筋の人生を歩んでこられた。

京谷 そうなんですが、そこからは怪我ばっかりで、なかなか結果が出せなくなったんです。それにその頃、現在の妻と婚約をしましてね。これからの結婚生活のためにも早く試合に出たいというプレッシャーや焦りがありました。
僕を指導してくださっていた岡田武史さんは、「腐るな」「我慢しろ、辛抱しろ。絶対チャンスは来るから」といつも声を掛けてくれていましたが、怪我が治って試合に出られたと思ったら、またメンバーから外される。それを繰り返しているうちに、もうすべてがいやになってしまったんですよ。
そういう中で、1993年11月28日の事故の日を迎えました。実はその日は結婚式の衣装合わせの前夜だったんです。仲間の家に遊びに行った帰り、明け方の時くらいでしたが、スピードも出していて、油断をしたんでしょうね。脇から車が出てきて、それをハンドルを切って避けたら、そのまま電柱に激突してしまった。

長屋 あぁ、衣装合わせの前夜に事故に遭われた……。

京谷 すぐに病院に運び込まれたものの外傷は全然なく、警察の方が来た時も立って会話したことは覚えているんです。ただ、そこからは記憶が断片的にしか残ってなくて、気づいた時にはもう集中治療室のベッドに寝ていました。

ピロレーシング代表

長屋宏和

ながや・ひろかず

昭和54年東京都生まれ。14歳からレースを始め、平成11年フランスの「ラ・フィリエールレーシングスクール」に1年留学。帰国後、F1に続くカテゴリーであるF3にステップアップ。14年三重県鈴鹿サーキットで行われたF1前座レース中に事故に遭い、脊椎損傷四肢麻痺の重度障碍者となる。リハビリの後、16年に絶対不可能といわれたカートレースに復帰し、完走。17年には車椅子利用者のためのファッションブランド「ピロレーシング」を立ち上げる。現在は主にピロレーシングの商品開発に取り組みながら、レーサーとして挑戦を続けている。著書に『それでも僕はあきらめない~元F3レーサー、車いすからの新たな挑戦』(大和出版)がある。