2018年12月号
特集
古典力入門
我が人生の古典②
  • 作家三木 卓

『方丈記』と我が人生の原点

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一間の庵、みずからこれを愛す

僕が『方丈記ほうじょうき』の存在を知ったのは戦後間もない、小学校の高学年の頃だった。東京で下宿生活をしていた大学生の兄が静岡の家に置いていったのだろうか。粗末な紙に印刷されたペラペラの冊子だったことを覚えている。
もともと『方丈記』はそんなに長い随筆ではない。訳文をまとめると400字の原稿用紙に25枚程度にすぎない。
 
のちに注釈のついたペラペラの『方丈記』に何気なく目を通して、思わず読み入ってしまった。注釈と照らし合わせれば中学生にも何となく原文の意味がつかめたこともそうだったが、何よりも僕の時代的個人的体験と重なり合うところが多かったからである。
 
例えば、最初に共感したのは居住空間のくだりだった。鴨長明かものちょうめいは30代の頃、鴨川のそばに小さないおりを結んだ。50代になると、さらに小さい家に移り住む。部屋は一丈四方、つまり3メートル四方という慎ましい広さである。『方丈記』という書名も、一丈四方の庵にあやかったものだという。
 
長明はこの庵について「一間の庵、みずからこれを愛す」と綴っている。一人がやっと生活できるだけの庵に、長明は深い愛着を持っていたことが分かる。
これを読みながら、僕は幼少期を過ごした中国からの戦後の日本への引き揚げ体験の日々を思い出していた。
 
引き揚げの前、ソ連兵に都心の家を奪われた僕たち一家は満鉄(南満洲鉄道)の中級社員の官舎に入り込んで仮住まいをしていた。ソ連軍が来ると分かった途端、満鉄の社員がさっさと逃げ出して空き家になっていたのである。ところが、いまの北朝鮮まで逃げ、そこで無理と判断して引き返してきたものだから、狭い官舎で二家族の同居生活を強いられることになった。
 
日本への引き揚げとなると、さらに大変だった。あれは日本人に対するいじめだったのかとも思うが、移動に使われたのは屋根のない貨車である。石炭を積むための車両に大勢の日本人が詰め込まれた。移動中は風雨にさらされるわけだから、劣悪この上もない。だが、側板のないフラット車に乗せられた人々もいたことを思えば、それでもまだ運がよかった。
 
葫蘆ころ島の港から博多までの輸送にはリバティというアメリカの4,000トン級の上陸用舟艇せんていが使われた。検疫を終えるまでの3週間を狭い船内で過ごし、再び乗客があふれんばかりの列車で静岡までの長旅である。ところが、身を寄せようとした静岡の叔母の家は空襲で焼けていた。僕たちは叔母が借りていた弁護士さんの家にさらに家族で転がり込むことになった。
 
僕が『方丈記』の「一間の庵、みずからこれを愛す」という一文に感じ入ったのは、狭い居住空間に人生の喜びを見出した長明に大きな驚きを感じたからだった。僕にとって居住空間の狭さは呪うべきものだったから、長明の達観した心境に対して子供心に深い印象を覚えたのである。

作家

三木 卓

みき・たく

昭和10年東京生まれ。出版社勤務などを経て詩人としてデビュー。以後小説を中心に書くようになる。『鶸』で芥川賞受賞、『小噺集』で芸術選奨を受賞した他、小説に『震える舌』『路地』『裸足と貝殻』、詩集に『東京午前三時』『わがキディ・ランド』などがある。『方丈記』への思いを述べたエッセイに『私の方丈記』(河出書房新社)。平成11年紫綬褒章受章、19年日本芸術院恩賜賞。