2025年3月号
特集
功の成るは成るの日に
成るに非ず
一人称
  • 本居宣長ノ宮宮司植松有麻呂

本居宣長に
学ぶ日本の心

日本人のアイデンティティを深く探求し、実に35年の歳月を傾け『古事記』の注釈書『古事記伝』を完成させた江戸期を代表する国学者・本居宣長。その偉人を主神として祀る本居宣長ノ宮の植松有麻呂宮司に、宣長が明らかにした日本人の心、いま求められる生き方について紐解いていただいた。

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先祖の誠を継ぎ本居宣長ノ宮を守り抜く

私が宮司を務めるもとおりのりながノ宮(三重県松阪市)は、松阪が生んだ江戸期を代表する国学者である本居宣長を主神とし、相殿にはひらあつたねをおまつりしております。

ご承知の通り、宣長は日本の歴史や古典を顧み、日本人のアイデンティティを深く探求した人でした。「もののあわれ」という考え方は、日本人固有の感性の発見として示唆に富むものであり、まったくの独創です。また、35年の歳月をかけて完成させた『古事記』の注釈書『古事記伝』は、国学研究の最高峰だと評されています。

その宣長を主神とする本居宣長ノ宮の由緒は、明治初年にさかのぼります。享和元(1801)年、宣長は72歳で亡くなりますが、遺言に従って、当時富士を望めた松阪郊外のやまむろ山に葬られ、その奥墓おくつきには山桜が植えられました。

そして早くから宣長を国学神として祀ろうとの世論が興り、明治8(1875)年、神職の川口常文たちが奥墓のかたわらに社殿を建立し、山室山神社と号します。これが本居宣長ノ宮の始まりです。

その後、明治22年に現・松阪市役所の所在地に遷座せんざが行われ、明治36年には県社に昇格。さらに大正4(1915)年、ますます人々の尊崇そんすうが深まる中、戦国武将・がもうじさとが松坂城を築城した松阪発祥の聖地・の森に遷座され、社号も昭和6年に本居神社、平成7年に本居宣長ノ宮へと改められ、現在に至ります。

植松家は、戦後代々宮司として本居宣長ノ宮をまもり続けてきたのですが、その理由は、先祖の植松ありのぶ(1758~1813年)が宣長の高弟だったからです。

有信は尾張おわり藩の武士の家に生まれましたが、子供の頃に父親が同僚の不始末に巻き込まれて失職したため、生計を立てるために版木師(木版に文字や絵などを彫る職人)となりました。もともと武士として学問があり、版木師として頭角を現した有信は、尾張藩の重役で宣長の門人でもあった横井千秋の推挙によって宣長に師事すると共に、『古事記伝』をはじめとする著書の出版に尽力します。宣長が44巻に及ぶひっせいの大作『古事記伝』を世に出す上で、資金力があった千秋、文字を彫る技術があった有信、この2人の存在は非常に大きかったことでしょう。

事実、宣長が恩義を受けた人たちは「恩頼」という図に示されているのですが、その中に横井千秋と有信の名が近い位置に書き記されています。しかし、有信にはある悔恨かいこんがありました。それは師・宣長の臨終に間に合わなかったことです。それを非常に悔やみ悲しんだ有信は、宣長の奥墓の側に奉仕し、8日間山を下りなかったそうです。その師弟愛、誠の情は有信の次の歌に表れています。
心なく木の葉なちりそちりをだにすえじとおもふ塚のわたりに
維新後、明治政府の廃藩置県やちつろく処分などにより、武士階級はなくなりました。その時代の大きな変化の中で、植松家は神職として生きていく道を選びました。主に熱田神宮に奉仕していたのですが、昭和20年の敗戦後、本居宣長ノ宮の宮司職が空席になっているとのことで、宣長と関係の深い植松家に声が掛かったのです。

ところが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が出した神道指令により、国や行政と神社の関係が切り離され、氏子のいなかった本居宣長ノ宮は財政的に非常に厳しい状況に陥っていました。

神前結婚式がブームになった時、神社の敷地内に専用施設を建てるなど様々な手を打ってはきたのですが、本居宣長を知る人たち、参拝者の減少もあいって、現在も綱渡りの運営が続いています。それでも、植松家がこの本居宣長ノ宮を離れなかったのは、まさに師・宣長に対する有信の悔恨と誠の情があったからに他なりません。

この本居宣長ノ宮に何かあれば先祖に顔向けができない。植松家には本居宣長ノ宮を絶対に護り抜き、宣長が日本人に遺した教えと心を後世につないでいく使命がある。ただただその覚悟で、88歳になるいまも、宮司としての勤めに留まらず、本居宣長に関する情報発信やイベント開催、さらには「本居宣長ノ宮復興プロジェクト」を立ち上げクラウドファンディングを実施するなど、様々な活動に取り組んでいるのです。

本居宣長ノ宮宮司

植松有麻呂

うえまつ・ありまろ

昭和11年大阪府生まれ。商社に勤務しながら神職の資格を取得。60年に本居宣長ノ宮に奉職し、先代の後を継いで平成6年より宮司を務める。