2018年6月号
特集
父と子
対談
  • 郷学研修所、安岡正篤記念館副理事長兼所長荒井 桂
  • 日本政策研究センター代表伊藤哲夫

「教育勅語」が
果たした役割

明治初期、西洋の文物が一気に流入し国内は混乱の極みにあった。これを憂慮された明治天皇は「教育勅語」を発布して、この混乱を鎮められた。価値観の混乱により国家や家庭の根幹が大きくぐらついているという意味では現代もまた同様だろう。明治天皇が「教育勅語」をとおして指し示された父性的原理は、現代社会にとって学ぶべきものが多い。荒井 桂、伊藤哲夫の両氏にお話しいただいた。

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国家存続に必要な父性的原理

荒井 「教育勅語ちょくご」についての対談を、というお話を伺った時、私は幼い頃に思いをせておりました。母親が「教育勅語」体制下の女子師範学校を出て小学校の教員をやっていましたから、学校に上がる前から「教育勅語」の話は聞いておりましたし、国民学校(当時の小学校のこと)時代は皆と同じようにそらんじておりました。
4年生の時に終戦を迎え、日本の教育制度は大きく変わりましたが、私自身の生き方の素地はやはり「教育勅語」にあると思っています。少年期に「教育勅語」の徳目を覚えたのは、いま思っても一生の宝物でしたね。
今回、伊藤先生と対談するに当たって、先生のご著書『教育勅語の真実』(致知出版社)を拝読し、戦後生まれの先生が、「教育勅語」に関心を抱き、このような本を執筆されたことに大変驚き、かつ感慨を深くした次第です。

伊藤 ありがとうございます。私は「教育勅語」で育ったわけではありませんし、逆にそれを否定するような戦後日本の風潮の中で教育を受けてきました。ただ、幸いにもその風潮に一度も流されることなく今日まで生きてきたわけですが、「教育勅語」に興味を抱いたそもそものきっかけは明治憲法を研究する中で井上こわしという人物を知ったことにあったんです。彼の足跡を辿たどるうちに「教育勅語」の起草者の一人であると分かって、そこからですね。

荒井 そうでしたか。いまは「教育勅語」と口にするだけで批判を浴びてしまう世の中ですが、そこに盛り込まれているのは東洋思想の基盤である5つの人間関係の根本的モラル、つまり「父子親ふししんあり」「君臣義くんしんぎあり」「長幼序ちょうようじょあり」「夫婦別ふうふべつあり」「朋友信ほうゆうしんあり」の五倫ごりんの教えです。
これが『中庸ちゅうよう』になりますと、五倫の順番が君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友と続くわけですが、その意味では、『中庸』はより父性的という言い方ができると思います。この五倫は東洋ばかりでなく、人類普遍の人間関係の基礎であり、それを教育の指針に据えたところが「教育勅語」の世界に誇るべき点ではないでしょうか。

伊藤 今回の特集テーマは「父と子」ということですが、明治天皇が人が踏み行うべき道として指し示された「教育勅語」もまたこの父性に関わるものと私は考えます。
皇后陛下は明治神宮御神座ごしんざ80年に当たって、
外國とつくにかざ招きつつ国柱太しくあれと守りたまひき
という明治天皇をしの御歌みうたまれています。「外國の風招きつつ」というお言葉のように、明治天皇は維新後、「五箇条の御誓文ごせいもん」によって国を開き西洋の知識を学ぶことをお誓いなされたわけですが、それだけで終わっていたら日本という国はおそらくバラバラになって、なくなっていたのではないかと思います。さらに国の柱を太くしようと努力をなされたからこそ、国家に求心力が生まれた。その一つがまさに「教育勅語」の発布でした。

荒井 そのとおりですね。

伊藤 かつて社会党の村山富市さんが総理大臣を務めていた頃、彼のモットーは「人に優しい国づくり」でした。この言葉自体、特に否定する要素はないわけですが、私はどこか違和感を抱いていたんです。その違和感の理由が分かったのは阪神・淡路大震災の被災地にボランティアとして駆けつけた時でした。緊急援助の自衛隊の部隊がサイレンを鳴らしながら走る様子を見ていて、「人に優しい国は勇気ある人によって守られる」と気づいたんですね。勇気を持って皆の命を守り、国の柱を守っている人がいるからこそ国家は存続することができるんだと。
もちろん、人を優しく包み込むことは大切です。それがなかったら私たちは生きていけないわけですが、そこに「国の柱を守る」という父性的な原理が機能していないと国は駄目になってしまう。「教育勅語」もまた、国の柱を守る上で大きな役割を果たしていたことは間違いありません。

郷学研修所、安岡正篤記念館副理事長兼所長

荒井 桂

あらい・かつら

昭和10年埼玉県生まれ。東京教育大学文学部卒業(東洋史学専攻)。以来40年間、埼玉県で高校教育、教育行政に従事。平成5年から10年まで埼玉県教育長。在任中、国の教育課程審議会委員並びに経済審議会特別委員等を歴任。16年6月以来現職。安岡教学を次世代に伝える活動に従事。著書に『山鹿素行「中朝事実」を読む』『「小學」を読む』『安岡正篤「光明蔵」を読む』『大人のための「論語」入門(伊與田覺氏との共著)』(いずれも致知出版社)など。

「教育勅語」を発布された明治天皇の思い

荒井 昭和を代表する俳人・中村草田男くさたおが昭和6年に、
降る雪や明治は遠くなりにけり
という有名な句を詠みました。
昭和初期は日本にとって大変な苦難の時代でした。昭和4年のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌によって都市も農村も大変なダメージを受けてしまう。そういう中で安岡正篤先生は昭和6年、日本農士学校を立ち上げられるわけですが、当時の日本の知識階級にとって明治という時代は本当に古きよき時代であったと思うのです。
つまり、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にあるように、日本の国民が一体となって坂の上の雲を目指して懸命に努力していた、そういうナショナルコンセンサスがあったのが明治という時代でした。
欧米列強の勢力東漸とうぜんという流れの中で、アジアやアフリカの多くの国々が植民地化、もしくは半植民地化され、極東の我が国日本だけが民族的な統一と独立を成し遂げました。しかも、第一次世界大戦前には世界5大強国の一つに数え上げられるまでになりますからね。その日本の精神的な補完をし、バックボーンとなったのが「教育勅語」と言うことができます。

伊藤 まさに荒井先生がおっしゃるとおりだと思います。一つだけ補足させていただくと、日本という国が坂の上の雲を目指して歩き続ける過程で、目指すものが変わり始めるという面もありました。
西洋に学ぶことによって、現在の私たちが考える以上の文物が海外から入ってくる。トップ層の中にも、それに翻弄ほんろうされて本来の目的が見えなくなった人たちがいました。おまけに日本の古い伝統や文化は壊さなくてはいけないという動きも出始めました。後に文部大臣となる森有礼ありのりまでが日本語を廃止して英語を公用語にしようと言ったのは有名な話ですね。
つまり明治維新から10年間は建設の時代だったと同時に、GHQによる戦後の占領政策に比せられるくらい崩壊の時代、思想混乱の時代でもあったわけです。
明治期、東大で医学を講じていたエルヴィン・フォン・ベルツの日記にはこう書かれています。
「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養のある人たちはそれを恥じてさえいます。……あるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと『われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです』と断言しました」

荒井 当時の思想的混乱ぶりが、よく伝わってきますね。

伊藤 その頃、明治天皇は20代後半の青年天皇になられていました。全国を巡幸じゅんこうされていた時、ある学校で英語のスピーチコンテストをご覧になり「あなたのいまの英語は日本語でどういう意味なのですか」とたずねられたら、その生徒は何も答えられなかった。
教育の本末が転倒しているのではないかと心配された明治天皇が、側近の儒学者・元田永孚ながざねに「英語を学ぶことは必要だが、教育のもとを立てなくてはいけない」と伝えられ、これを受けて元田が「教学聖旨せいし」を書いて政府に提言する。これが「教育勅語」ができる出発点だったと言われています。

荒井 明治天皇は、我が国には精神的には和魂漢才わこんかんさいの伝統があるではないか。その土台の上に和魂洋才の精神を加えていくべきではないのか、とお考えになったのでしょうね。

日本政策研究センター代表

伊藤哲夫

いとう・てつお

昭和22年新潟県生まれ。新潟大学卒業。国会議員政策スタッフなどを経て、保守の立場から政策提言を行う日本政策研究センターを設立。現在日本会議常任理事、日本李登輝友の会常務理事。著書に『明治憲法の真実』『教育勅語の真実』(ともに致知出版社)『経済大国と天皇制』(オーエス出版)『憲法かく論ずべし』(日本政策研究センター)など。