2021年7月号
特集
一灯破闇
  • 河井寬次郎記念館学芸員鷺 珠江

河井寬次郎が残した言葉

陶芸、彫刻、書や随筆など、生涯を通じて膨大な作品を残した陶芸家の河井寛次郎。我が国の近代工芸界にこれほど絶大な影響を与えた人はいない。類を見ない表現力に留まらず、その生き方や哲学的な言葉はいまなお多くの人を鼓舞し続けている。その河井寛次郎の辿った生涯や残した言葉を、寛次郎の孫であり記念館学芸員の鷺 珠江さんにお話しいただいた。

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灯が1つ大きな闇に穴あけて居る

不世出ふせいしゅつの陶芸家・河井寬次郎かんじろう。没後50年以上経ったいまなお、多くの人から親しまれ続けるのは、他の追随を許さぬ造形力や施釉せゆうの技術だけに留まりません。天性の美意識や深い哲理に基づく言葉、そして寬次郎自身の人間性そのものが、時代を越え人々の心に響き続けているのでしょう。

生涯を通じて膨大な作品を残した寬次郎は、陶器以外にも木彫やデザインなど数多の仕事を手掛け、同時に詩人や随筆家として多くの言葉も残しています。

一灯破闇いっとうはあん

この言葉もまた、寬次郎が創作した四字造語です。残念ながらこの言葉が記された書や作品は当館には残されていません。寬次郎と交流の深かった実業家・大原総一郎氏が将棋の大山康晴十五世名人に贈った寬次郎作の陶板に書かれていた言葉だと聞いています。

寬次郎は多くの作品を残すも、その解釈はすべて受け手にゆだねていました。四字造語に関しても、どれも読み方をつけていないため、私たちは「一灯破闇」を「一つのあかり、闇を破る」と読んでいます。

寬次郎は深夜寝入りばなや明け方に言葉を思いつくことが多く、枕元にはいつも紙と筆記用具が置かれていました。それらの言葉の中には幾度も推敲すいこうを重ねる過程で最終的に熟語となったものが多くあります。60代頃までは詩的な言葉が多かったのに対し、70代では四字造語が増えているため、この言葉も晩年のものと推察しています。事実、「灯が一つ大きな闇に穴あけて居る」という同義の詞句が実際の書と共に残っています。

灯が一つ大きな闇に 穴をあけて居る

真っ暗闇の中でも、1つの灯りがあるだけで救われるものです。寬次郎は自らの苦労を言葉に残すことはしなかったものの、明治・大正・昭和と激動の時代を生き抜いた76年の生涯には、人知れず多くの苦悩があったことでしょう。それでも一灯を自らの心に掲げ、1つの道を歩み切りました。

寬次郎の1人娘・須也子すやこの3女である私は、寬次郎が亡くなった昭和41年当時、9歳だったため、残念ながら多くの思い出があるわけではありません。しかし、現在記念館となっている家で寬次郎と共に暮らし、仕事をする姿に間近で接することができたことは大変贅沢ぜいたくな思い出であり、そこには濃密で温かな時間が流れていました。

河井寬次郎記念館学芸員

鷺 珠江

さぎ・たまえ

昭和32年京都府生まれ。河井寬次郎の一人娘・須也子の三女として生まれる。同志社大学文学部卒業後、河井寬次郎記念館学芸員として勤務。祖父・寬次郎にまつわる展覧会の企画、監修や出版、講演会、資料保存などにも携わる。