2018年6月号
特集
父と子
鼎談
  • ピアニスト早藤眞子
  • チェリスト渡部玄一
  • ヴァイオリニスト渡部基一

父・渡部昇一が
遺したもの

渡部昇一先生は生前、「もし子供が生涯幸運に恵まれることを願うなら、まずその子供を可愛がれ」と言われていたという。その言葉どおりに両親からの深い愛を受け、いずれも音楽の道へと進んだ長女の早藤眞子さん、長男の渡部玄一氏、二男の渡部基一氏。亡き父の思い出を交えながら、その教えを振り返っていただいた。そこから見えてくるのは父親としての素顔と、常に自己と厳しく対峙し続けた修養者としての一面である。

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いまなお続く大きな喪失感

——渡部先生が亡くなって、早いもので4月17日に一周忌を迎えますね。

玄一 ええ。この1年は本当にあっと言う間でした。ただ、父が亡くなってからというもの、僕の中ではある種の喪失感がずっと続いておりましてね。それは亡くなった後のショックとはまた別の喪失感なのですが、なかなかそれから抜けきれずにいるんです。
子供の頃からの思い出がいつもよみがえってきて、本を読んでいる時なども「父と感想を語り合いたい」「気づいたことを報告したい」という思いが湧いてきて、だけど、父が既にいないことにふと気づかされる。この喪失感はまだ当分の間、続くことでしょうね。
父・渡部昇一は僕たちきょうだいにとってとても大きな存在で、日を追うごとにそのことが実感として分かってくる。皆きっとそう感じているはずです。

基一 そのとおりですね。

玄一 僕も亡くなる前は時間の許す限りそばにいるようにしたのですが、基一と佳保里さん(基一氏の奥様)は最後の1年間、ずっと父の介助をして、父の闘病を支えてくれましたから、本当に大変だったと思います。

基一 私も兄と同様、父と過ごした1年間を思うと、何とも言えない寂しさが込み上げてきますね。
その1年間はとても濃い時間だったし、特にいつも傍にいて父を支えてくれた家内には感謝しています。また24時間、父の傍にいた母の心労は相当大きかったと思います。

玄一 亡くなる直前、僕と基一は父の傍でいろいろな話ができたわけですが、とても残念だったのはスイスから向かっていた姉が父を看取れなかったことです。自宅に着いたのが確か亡くなった6時間後でしたね。

眞子 ええ。2017年に入ってから毎月通ったのでしたが、3月に見舞った時、父に「今度は夏に戻るからね」と言ったものの、もしかしたら夏まではもたないかもしれない、と感じていたのです。実際、それが父との最後の別れでした。
別れる前の晩、私は父が寝入った後にずっと足を揉んでいました。気持ちよさそうに眠る父の寝顔を見てはホッとしたものです。その後も時折寝室に行っては様子を見ていたのですが、手を握ってみると、眠っているはずの父が私の手をずっと握り続けているんです。

玄一 力が抜けることがない。

眞子 その前の日の晩、父は母のことを繰り返し話していました。「かあちゃんが寂しくならないように頼むよ」ととても気にしていました。愛妻家で子煩悩だった父の気持ちは十分分かっていましたし、普段から父と私は言葉なしでもツーカーのところがありました。それで私は父の手を握りながら、母が寂しくならないように、何の心配もないようにすることを、黙って約束したのです。そうして4月17日に戻ってくる便をすぐに手配しました。
亡くなって1年が経ったいまは、もちろん会えないし会話ができずに寂しい限りですけれども、私はいまも父は生きている気がしています。テレビや雑誌を見れば、父が論壇に復権させた「国益」という言葉が頻繁に出てきますし、父と同じ思いで頑張っている保守の論客の皆様の活躍を見ていると、その中に父の姿を感じることができます。「父が望んだ時代になってきたんだな。よかったな」という思いを抱くことも多くあります。

ピアニスト

早藤眞子

はやふじ・まこ

桐朋学園大学卒業後、英国ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックにてA.R.C.M(ピアノ及びチェンバロ)取得。夫のパリ勤務を機にバロックアンサンブルをN・シュピートに師事。2005年ジュネーヴ・コンセルヴァトワール・ポピュレール・ド・ムジーク・オルガン科を修了。2004年よりマンダモン・ローヌ教区オルガニストを務め現在に至る。2008年より2017年までジュネーブ日本語補習学校講師。

激痛に耐えながら最後の講演

玄一 父の体力が次第に落ちていったのは2016年6月に自宅の書斎で転倒し、骨折してからでした。ちょうど新宿の京王プラザホテルで致知出版社の『渡部昇一一日一言』の出版記念講演会が開かれる少し前でしたね。
晩年に発症した前立腺がんの治療は続けていましたが、とても85歳とは思えないほど元気でした。それが転倒して右腕を骨折してからというもの、ガクンと弱り始めた感じがします。

——あの時は1時間半、大変素晴らしい話をしてくださいました。ただ、その2か月後、山形で書籍の取材をさせていただくためにお会いした時、自力では歩けなくなっていらっしゃったのには大変驚きました。

基一 1時間の取材も難しいだろうと思われたのに、いざ取材を始めてみると、お昼から夕方までの5時間半、休憩をとることもなく口述を続けたと聞きました。しかも、後半になるにつれて次第に熱を帯びてきて、編集者の皆さんも大変驚かれたと。

玄一 10月の頭、父をフランス料理の店に誘ったことがあるんです。この時も歩くのが大変な状態でしたが、父は自分で手すりを握り2階まで上がったんですよ。フルコースを、ひととおり口にする姿を見て、これはひょっとしたら回復するのでは、と期待していました。だけど、それが自力歩行による最後の外食になりました。

眞子 父はもともと食べることが大好きでしたから、だんだん食が細くなり、受けつけなくなって弱っていくことを自分でも大変気にしている様子でしたね。

基一 そう。秋には少し食欲が戻ったのですが、冬になるとまた食べなくなってしまって……。

玄一 ただ、そういう状態でも、2017年3月10日の致知出版社の「渡部昇一塾」だけは欠席できないといつも言っていたんです。父は約束どおり、ゲスト講師の中西輝政先生との対談と単独の講演を無事やり遂げた、と……。

眞子 その2週間後の3月25日には、同じ致知出版社の「日本の偉人に学ぶ一日セミナー」で1時間半、幸田こうだ露伴ろはんについて講演していますね。これが父の最後の講演になったと思います。それ以前からがんが既に骨にかなり転移していて、家では常に痛そうにしていましたが、講演中は辛そうな表情は浮かべず、傍で話を聞いていても、まるで遺言を述べているようでした。

チェリスト

渡部玄一

わたなべ・げんいち

東京芸術大学附属高校を経て、桐朋学園大学卒業。同校研究科卒業。1993年米国ジュリアード音楽院卒業。インディアナ大学で研鑽を積み1995年帰国。以来、NHKテレビ出演をはじめ、ソリストとして、また室内楽、オーケストラ奏者として幅広く活躍。2003年より文化庁海外派遣員として1年間ドイツのミュンヘンにて研修。2008年(株)東京アンサンブルギルド設立。現在、読売日本交響楽団団員。