2016年9月号
特集
恩を知り
恩に報いる
インタビュー①
  • 仏師江里康慧

師に足下を
照らしていただき、
仏師の出発点に立てた

京仏師の江里康慧氏は「仏像に崇高さを与えるには、仏師は修行者でなくてはならない」と説く。その境地に至るには師からの学びや亡妻の支えがあったのだという。その恩を心に留め、きょうも魂を込めて制作に勤しむ江里氏にお聞きした。

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現代美術から仏師の道へ

──江里さんは海外にまでその名を広く知られた大仏師ですが、この道一筋に歩んで50年以上になられるそうですね。

はい。これまでに1,000体以上の仏像を手掛けたことになるでしょうか。いまこの年になって、「求めれば求めるほど菩提への道は遠くなる」と語られた奈良仏教の高僧の言葉が心に響きます。鎌倉時代を含めてそれ以前の仏教美術の古典とされるものは、美しさとともに近づき難い尊厳さと崇高さを秘めていて、それがなぜなのかずっと探求してきました。50年以上歩んできてその道が遙かに遠いことをしみじみと感じているんです。
仏師が修行して独り立ちするには10年と言われますが、当然のことながら10年で修行が終わるわけではなく、ほんの入り口に立ったところです。やはり目を閉じるまでが修行なのでしょうね。

──亡くなった奥様の佐代子さんは截金の第一人者で、重要無形文化財保持者(人間国宝)でいらっしゃいました。

平成19年に他界しまして今年(2016年)で9年になります。私は仏像を彫り、家内はその仏像に截金を施すというように常に二人三脚でやってきたわけですが、亡くなったいまも気持ちは一緒です。家内の分まで頑張って、納得いく作品を残したいという思いで生きております。

──江里さんは、もともと仏師の家にお生まれになったのですね。

父は江里宗平と申しまして、私はその長男です。父は仏師になるために京都に出てきました。修行を終えて九州に帰るつもりだったようですが、師匠が亡くなったこともあって結局、京都に根を下ろすことになったんです。
ところが、戦争前後は皆食べることに必死で、精神的な面は二の次、三の次という時代。仏師は消滅寸前でした。私の記憶では僅か20名ほどが京都で仏像制作に携わっていたように覚えていますが、仕事はほとんどなくて生活に困窮し、将来に夢や希望を持てる状態では全くなかったんです。
そういう父の姿を見ていたからか、私は晴れやかな世界に行きたいと現代美術を志しました。ところが運命というのでしょうか、いろいろな偶然が重なって、結局は自分の意思とは違って父の跡を継ぐことになりました。

──偶然が重なった?

日本が焦土から復興し始めても仏師の生活の厳しさは相変わらずでしたが、父が親しくしていた松久朋琳先生が、空襲で焼けた大阪のある名刹の中門に5メートル近い仁王像の制作に取り組まれることになったのです。人手が足りないというので、高校卒業を控えた私にも声が掛かりました。仏師になるつもりはありませんでしたが、500年に一度あるかないかの大仕事と聞いて心が動いたんですね。これは何か得難い体験になるのではないか、と。
それでお寺に寝泊まりしながら、兄弟子の細々とした雑用を手伝ったり、一緒に博物館や古いお寺を訪ね歩いたりしました。「この技術はどうだ、あの表現はこうだ」と話される姿を間近で見たりしているうちに、それまで美しいと思えなかった金箔が剝がれた仏像の中に潜む、何かを訴えかける躍動感のようなものを感じ取るようになりました。
10か月ほどして2体の仁王像が完成した頃には、私の気持ちはすっかり変わっていました。仏師が日本にとって大切な存在であることに気づいて、「このまま修行を続けさせてください」と正式に松久朋琳先生に入門を申し込んだんです。

仏師

江里康慧

えり・こうけい

昭和18年京都府生まれ。37年京都市立日吉ヶ丘高校美術課程彫刻科を卒業後、仏師の松久朋琳氏、宗琳氏に入門。40年に独立し、平成元年に天台宗三千院門跡から大佛師号を受ける。19年、截金の重要無形文化財保持者である故・佐代子夫人とともに第41回仏教伝道文化賞を受賞した。著書に『仏像に聞く』(KKベストセラーズ)などがある。