2023年1月号
特集
げずばやまじ
対談
  • 日本航空元社長大西 賢
  • 日本航空元会長補佐専務執行役員大田 嘉仁

〝JALの奇跡〟は
かくて実現した

稲盛和夫に学んだ仕事の要諦

総額2兆3,000億円という事業会社として戦後最大となる負債を抱え、2010年に経営破綻した日本航空(JAL)。そのJALを奇跡と言われる再建に導いたのが、2022年8月に逝去された京セラ創業者の稲盛和夫氏である。破綻後の新社長として難しい経営の舵取りを担った大西 賢氏、稲盛氏の側近としてJAL社員の意識改革に奮闘した大田嘉仁氏のお二人に、知られざる再建の軌跡、稲盛氏に学んだ経営の要諦、リーダーシップの神髄を語り合っていただいた。

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「恩返し」から「恩送り」へ

大田 稲盛さんと共に経営破綻はたんした日本航空(以下JAL)の再建に取り組んだ大西さんと、このような場で対談をさせていただくのは初めてのことですね。きょうはとても楽しみにしていました。

大西 こちらこそ楽しみにしていました。改めて当時のことや稲盛さんの教えを振り返る機会をいただき、ありがとうございます。

大田 その稲盛さんが今年(2022年)の8月24日に90歳でお亡くなりになりました。大西さんは稲盛さんの訃報をどのように受け止められましたか。

大西 ここ数年は実際にお目に掛かる機会はほとんどなく、特に2019年に盛和塾せいわじゅくが解散してからは、塾生の皆さんとのお付き合いも少なくなり、稲盛さんがどうしていらっしゃるのか情報もあまり得られない状況が続いていました。
ただ、毎年稲盛さんがお生まれになった1月を迎えると、「今年は〇〇歳になられたな」って、稲盛さんのことをふっと思い出すんですよ。だから、今年の1月も、「ああ、90歳になられたな」と。
そのような中、ある会社の取締役会でブリーフィング(事前報告)を受けている時に稲盛さんの訃報を知ったんです。90歳ですから、それほど驚きはしませんでしたけれども、単純ではない、複雑な感情が胸に込み上げてきました。
一つには「巨星つ」といいますか、「非常に大きな存在がいなくなってしまった」という残念な思い。それから、感謝の気持ちがワーッと胸に迫ってきました。私は少し前まで、稲盛さんをはじめJALの再建でお世話になった方々に恩返しをするんだとよく言っていたんですね。でも、最近は恩返しではなくて、いただいた恩を次の人に「恩送り」をしなければいけないと思うようになっていました。稲盛さんの訃報に接し、その思いがより強くなったんです。

大田 私も大西さんと同じで、訃報を受け取った時に込み上げてきたのは、30年近く稲盛さんと共に人生を歩み、JALの再建でも主に意識改革担当として3年間ご一緒させていただき、本当に恵まれている、有り難いという感謝の思いでした。
それから、稲盛さんは常々「魂は不滅だ」「私たちはソウルメイトなんだ」とおっしゃっていましたから、たとえ肉体はなくなったとしても、稲盛さんの魂とはいつも一緒にいる、稲盛さんは身近におられるという気がしています。
私もコロナなどでここ数年は稲盛さんと直接お会いする機会は得られませんでしたが、今年に入って3度ほど電話で近況報告をさせていただきました。その報告をする相手がいなくなってしまったことは確かに寂しいですが、私の心の中にはKDDIの創業やJAL再建など、最もお元気だった頃の稲盛さんの姿がビルトインされている(組み込まれている)んですね。だから、これからも心の中の元気な稲盛さんに近況などを報告していきたいと思います。

大西 最も元気だった頃の稲盛さんが心の中にいらっしゃる。

大田 また、これも大西さんと同じなのですが、稲盛さんに多くのことを教えていただいた身として、その遺志を継ぎ、学んだことをできる範囲で次世代につないでいく役割が自分にはあるんだという使命感をより一層強くしています。

日本航空元社長

大西 賢

おおにし・まさる

昭和30年大阪府生まれ。灘高等学校を経て、53年に東京大学工学部を卒業後、日本航空に入社。整備畑での経験を経て、平成22年に日本航空インターナショナル管財人代理兼社長に就任、24年に会長、30年から特別理事を務めた。現在は帝人社外取締役、商船三井社外取締役、かどや製油社外取締役、学校法人国際大学理事、学校法人東洋大学客員教授、ベネッセHD社外取締役を兼任。

質問が一つもなかった稲盛さんとの面談

大田 JAL再建の歩みを改めて振り返ってみると、やはり大西さんが一番大変な役割を背負われた、ご苦労されたなと思うんです。
政府の要請を受けて、稲盛さんがJAL再建に取り組むことが決まった時、私たちが心配したのはJALの誰が私たちのカウンターパート(対等な相手)になるかということでした。その人とタッグを組まない限り、再建はできないだろうと。
それで企業再生支援機構や管財人の推薦を受け、稲盛さんなどの面談を経て、大西さんに社長に就任していただいたわけですが、どう考えても一番損をする役割なんですね。外部から来た稲盛さんと折り合いをつけながらも、あまりペコペコし過ぎれば社内から反感を買ってしまう。かといってJALの古い体質を引きずったままでもいけない。
その難しい状況の中で、社内をまとめていくという非常に難しいかじ取り、私だったら逃げ出したくなるような重い責任を背負われたのが、まさに大西さんだった。だから、稲盛さんも「不器用だったけど、結局大西君に一番苦労をかけたな」とおっしゃっていました。

大西 稲盛さんとの出会いからお話しさせていただくと、当時の私は稲盛さんのことを本でしか存じ上げなかったんです。初めてお会いしたのは、先ほどおっしゃった社長を決める面談の時でした。
面談ですから、当然、「社長になったらどうするんだ」「覚悟はあるのか」などと、いろいろ質問されるのだろうと思っていました。ところが、質問は一つもない。稲盛さんが「俺はこうやって生きてきた」と、ご自身の人生体験をずーっと語られて終わったんです。

大田 私もその場にいましたけれども、確か30分くらい稲盛さんが話をされていましたね。それを大西さんは目をつぶってじーっと聞いておられた。稲盛さんの話を本気で聞いているのかなと(笑)。

大西 ええ、思わず目を瞑ってしまいました(笑)。面談はその時の1回だけでしたから、当時54歳と若く、経験もなかった私がなぜ社長に選ばれたのか、いまだに分かりません。ただ自分なりに考えるには、その時、JALが再建に失敗する、2次破綻するケースは主に二つあったと思うんですね。一つは経営の舵取りに失敗するケースですが、これは稲盛さんがいらっしゃったことで可能性としては限りなく低くなりました。
もう一つは安全面がおろそかになって事故を起こしてしまうケース。特にJALは過去に大事故を起こしていますので、再度何かあったら絶対につぶれてしまいます。
そういう意味では、私はずっと現場で技術・整備畑を歩んできた人間でしたから、安全面については脊髄せきずい反射するくらい徹底して体に染み込んでいるんです。安全面のリスクであれば担保できる、消すことができる。そこの部分で私を社長に選んでいただいたのかなと思います。というより、そこしか思い浮かばないですね。安全面以外の大半のことは、はっきり言って自信はありませんでした。

大田 いろいろな要素はあったのでしょうが、それまでの社内外の多くの方々の推薦が大きかったと思います。

大西 さらに、破綻した責任をとってそれまでの経営陣がスコーンといなくなってしまった。私を含め本来なら5年、10年後くらいに経営幹部になる人材、いわばひよっこが「きょうから経営をやれ」という状況になったわけです。教えてくれる先輩がいない、どうしていいのか分からない、そんなところからのスタートでしたね。

日本航空元会長補佐専務執行役員

大田 嘉仁

おおた・よしひと

昭和29年鹿児島県生まれ。53年立命館大学卒業後、京セラ入社。平成2年米国ジョージ・ワシントン大学ビジネススクール修了(MBA取得)。秘書室長、取締役執行役員常務などを経て、22年日本航空(JAL)会長補佐・専務執行役員に就任(25年退任)。27年京セラコミュニケーションシステム代表取締役会長に就任(30年退任)。現職は、MTG取締役会長、学校法人立命館評議員、鴻池運輸社外取締役、新日本科学顧問、日本産業推進機構特別顧問など。著書に『JALの奇跡』(致知出版社)がある。